塚原ト伝 つかはら・ぼくでん

(1489-1571)戦国時代の剣術家。鹿島神宮の神職の家に生まれ新當流を創始する。その強さは世にいわく「生涯敗れることなし」。剣聖とされ る。


小野次郎右衛門 おのじろう・うえもん

前身は御子神典膳吉明という里見義康の家臣で、武者修行に出た際、伊東一刀斎と出逢い、師事。下総小金原の決闘で兄弟子小野善鬼を倒し、一刀斎より印可道統を受け継ぐ。後に家康に仕え小野次郎右衛門忠明と改姓、小野派一刀流の祖となった。二代将軍秀忠の剣術指南役として知られる。

東郷重位とうごう しげかた

(1561-1643) 島津氏家臣で通称藤兵衛、長門守のち肥前守を称す。薩摩坊泊地頭で剣術薩摩示現流(初期は日天真正自顕流)の開祖。家久に従って上洛した際に京で善吉和尚(俗名赤坂弥九郎)に剣の奥義を学び、薩摩へ帰って修練に励み自顕流(後に示現流)を創始した。義久・家久に仕え、薩摩藩および家久の剣術指南役になった剣豪武将。

柳生宗矩やぎゅう むねのり

(1571-1646) 徳川家康・秀忠・家光の家臣。宗厳の五男で初名は宗頼、通称は又右衛門、後に但馬守を称す。剣術将軍秀忠・家光の剣術指南役として抜擢され、家光のもとでは惣(大)目付の重職に就き諸大名を監視、ついに大和柳生一万二千五百石の大名にまで昇進した江戸柳生家の祖。 大和は柳生の郷士、柳生家の棟梁で、剣術を磨いていましたが、上泉伊勢守信綱の弟子の疋田文五郎(ひきた・ぶんごろう)に破れ、信綱の門下に入りました。
信綱に与えられた「無刀取り」の公案を完成させ、徳川家康の前で披露したことで、柳生家が将軍家剣術指南役となるきっかけを作りました。

宮本武蔵みやもと むさし

(1584-1645)二刀流の達人で二天一流の祖。佐々木小次郎との舟島の戦いで有名な生涯無敗の剣豪。奇矯かつ傲慢な性格と伝えられ、風呂嫌いで身だしなみに欠けていたことから仕官先が見つからなかったという。しかし晩年には客分ではあったが細川忠利のもとで禄を喰んだ。著書に「五輪書」、また画家としても名高い。

千葉周作ちば・しゅうさく

(1794-1855) 寛政6(1794)年元旦、陸前国栗原郡花山村に生誕。幼くして家伝の北辰夢想流(無刀流?)を学ぶ。文化6(1809)年、下総松戸に移住して当地の浅利又七郎義信の門に入り、名を周作と称した。23歳で一刀流小野派の免許皆伝をうけると又七郎の師で江戸の中西忠兵衛子正の中西道場を紹介され、ここに寄宿。3年後、中西宗家の一刀流中西派の免許を授与された。その免許試合で高柳又四郎と立ち会って引き分けたが、このとき床板を踏み抜いて、忠兵衛から激賞されたという。27歳のとき浅利道場に戻ってその養子となって又七郎の姪と結婚、先代同様又七郎を襲名したが、一刀流小野派の改良の是非をめぐって衝突し、けっきょく道場を出て諸国修行の旅に出ている。

 文政5(1822)年秋、江戸日本橋品川町に玄武館道場を開き、北辰一刀流という流派を立てた。3年後、神田お玉ガ池に道場を移して大いに繁盛させ、位の桃井春蔵、力の斎藤弥九郎らの道場と並んで、技の千葉と呼ばれ、江戸の三大道場と称された。事実、竹刀を持たせたら右に出る者はおらず、その腕を聞いた全国各地の大名から剣術指南役として召し抱える声が多かったが、主取りは剣客の道にあらずといってすべて断っている。但し、大名家からの委託門人は薩摩、尾張、加賀、熊本、津、柳河、福山、水戸など十数藩をかぞえた。やがて水戸藩の要請を受け、弘道館の剣術師範として3百石を給されたことにともない、二人の息子を藩士として出仕させた。安政2(1855)年12月10日(13日説もあり)、江戸にて病没。享年62歳。戒名を高明院勇誉智底敬寅居士。墓は東京都台東区浅草田島町誓願寺内・仁寿院にある。なお、周作の門人は約3千人ともいわれ、その代表的な人物として玄武館道場からは有村次左衛門、清河八郎、坂本龍馬らを輩出した。


男谷信友

(1798-1864)寛政10年(1798年)、男谷新次郎信連の子として生まれる。文化7年(1810年)の生まれとの説もある。のちに同族の男谷彦四郎忠果の婿養子となる。
彦四郎は、男谷(米山)検校の孫で、男谷検校はもともと越後三島郡長鳥村(現・新潟県柏崎市)の貧農の出で、しかも盲人であったが、雪の夜に奥医師石坂宗哲の門前で行き倒れていたところを助けられた。
宗哲から1両2分の資金を借りて生業を始めたところ、利財の才に長け、江戸府内17箇所の地主となり、検校の位を買い、大名貸しも行うほどになった。
男谷検校の末子平蔵忠凞は、安永5年(1776年)幕府の西丸持筒与力(御家人)となり(男谷検校に御家人株を買い与えられたという)、後に勘定に昇進し旗本となった。
平蔵の長子が彦四郎で、三男が左衛門太郎(小吉)惟寅、勝海舟の父である。したがって、男谷信友と勝海舟は従兄弟の間柄になる。

67歳で没。文化7年生まれとの説では享年55となる。深川増林寺に葬られたとされる。
当時の剣術界での各流派の多くは、他流試合を禁じていた。直心影流剣術も同様で、やむをえず立ち合うときは、「怪我をしても文句は言わない」旨の誓約書を相手に書かせた上、防具を使わず木刀で立ち合っていた。
しかし、松平定信の武芸奨励策以来、他流試合が行われるようになり、これを積極的に実践して広めたのが男谷信友や伊庭秀業だったという。
信友は、防具・竹刀を用いて打ち合い、申し込まれた試合は一度も拒まず、江戸府内に立ち合わなかった者はいないといわれるほどであった。
試合は、どんな相手でも三本のうち一本は相手に花を持たせるが、いかに強敵でも「花」の一本より勝ちを取ることができず、底知れぬ実力と評された。
その信友も、大石進との試合で初戦は勝ったものの、再戦では大石得意の左片手突きをかわすことができなかったという。
温厚な人格者としても知られ、応対は親切丁寧で高ぶるところがなく、「君子の剣」と称された。
天保から弘化にかけての一時期、島田虎之助、大石進と並んで「天保の三剣豪」と謳われた。

仏生寺弥助

ぶっしょうじ やすけ、1830年(文政13年) ~ 1863年(文久2年)8月8日)は、幕末の剣豪。練兵館最後の塾頭・原保太郎は、「日本武道史」の著者横山健堂に、「弥助こそ当時の日本一」と語った。身長168cm。
越中国射水郡の漁村に生まれる。江戸へ出て、神道無念流の剣術道場・練兵館の風呂焚きの仕事に就く。仕事の合い間に道場を覗き見し、習わぬ剣術を覚えてしまった。道場に上げられ剣を持たせてみたら、初めから練達の者を打ち負かすほどだった。時に弥助16歳。
何十年も修行をし、やっと一人前という剣士の多い中、天才肌の人物だったと言える。しかし文字も読めない無学者で、時代の流れ、文武両道志向から取り残され、無地位に終わった。

芹沢鴨と親密になり、新撰組に加わろうとしたところ、弥助の強さを恐れたかつての仲間に、謀殺された。

近藤勇

(1834-1868)近藤 勇(こんどう いさみ)は、江戸時代末期の新選組局長、幕臣。勇は通称、諱は昌宜(まさよし)。慶応4年(1868年)からは大久保剛、のちに大久保大和。家紋は丸に三つ引。
試衛館 ・農民・宮川久次郎の三男として生まれる。幼名は勝五郎。宮川夫妻には勝五郎の他に、長女・リエ(天保3年(1832年)に死去)、長男・音五郎、次男・粂蔵(粂次郎)がいた。
出身地である武蔵国多摩郡上石原村は現在の東京都調布市野水(北西部に位置)に相当する。
嘉永元年(1849年)11月11日、勝五郎は天然理心流剣術道場・試衛館に入門する。盗人を退治するなどして近藤周助(近藤周斎)に認められ、周助の実家である嶋崎家へ養子に入り、嶋崎勝太と名乗る。
のちに正式に近藤家と養子縁組し、嶋崎勇と名乗ったのちに、近藤勇を名乗った。万延元年(1860年)に清水徳川家家臣・松井八十五郎の長女である松井つねと結婚。 翌年8月には府中六所宮にて、天然理心流宗家四代目襲名披露の野試合を行い、晴れて流派一門の宗家を継ぎ、その重責を担うこととなった。また、文久2年(1862年)には、長女・たま(瓊子)が誕生した。

文久3年(1863年)、清河八郎の献策を容れ、江戸幕府は14代将軍・徳川家茂の上洛警護をする浪士組織「浪士組」への参加者を募った。
斎藤一を除く試衛館の8人はこれに参加することを決め、2月8日、浪士組一向と共に京都に向けて出発した。中山道を進み、2月23日に京都に到着すると、壬生郷士の八木源之丞の邸に宿泊し、世話になった。

新選組局長 清河は朝廷に建白書を提出し浪士組の江戸帰還を提案した。異議を唱えた近藤や水戸郷士の芹沢鴨ら24人は京に残留する。京都守護職を務める会津藩主・松平容保に嘆願書を提出し、京都守護職配下で「壬生浪士組」と名乗り、活動を開始した。

結成当初の壬生浪士組は運営がスムーズに行かず、3月25日に壬生浪士組結成メンバーの一人である殿内義雄は客死した(暗殺説あり)。根岸友山の一派と粕谷新五郎 は脱退し、阿比留栄三郎は病死(暗殺説あり)し、家里次郎は切腹した。これにより壬生浪士組は近藤派と芹沢派の二派閥体制となった。

長州藩を京都政局から排するために中川宮朝彦親王(尹宮)、会津藩、薩摩藩主導の八月十八日の政変が起こると、壬生浪士組は御花畑門の警護担当となるが、目立った活躍もなく長州勢の残党狩りに出動する。
その後、働きぶりが認められ、武家伝奏より「新選組(新撰組)」の隊名を下賜された。文久3年(1863年)9月16日(一説に18日)、芹沢一派が暗殺されると、近藤勇主導の新体制が構築された。

元治元年(1864年)6月、新選組は熊本藩士・宮部鼎蔵の同志である古高俊太郎を捕縛した。古高の供述から中川宮邸放火計画を知った新選組は直ちに探索を開始し、一味が潜伏していた池田屋に突入して宮部一派を壊滅させた
(池田屋事件)。この働きにより、新選組は朝廷と幕府から感状と褒賞金を賜った。禁門の変出動を経て、近藤は隊士募集のために帰郷する。
ここで伊東甲子太郎ら新隊士の補充に成功した。慶応元年(1865年)、永井尚志の供として広島へ赴く。そして慶応3年(1867年)、新選組は幕臣となり、近藤は御目見得以上の格となる。
これにより近藤は幕府代表者の一員として各要人との交渉を行い、そのなかには土佐藩の参政である後藤象二郎等も挙げられる。

そのころ、伊東甲子太郎は御陵衛士として分離し、藤堂平助・斎藤一(近藤派の間者との説あり)らがこれに加わった。伊東は近藤を暗殺しようと企むが
慶応3年(1867年)11月18日、近藤は伊東を酔わせ、帰り際に大石鍬次郎等に暗殺させた。その後、他の御陵衛士たちを誘い出して夜襲し、藤堂らを殺害した。 その報復として近藤は12月18日、伏見街道で御陵衛士の残党に銃で撃たれて負傷する。そのため、慶応4年(1868年)1月3日の鳥羽・伏見の戦いでは隊を率いることができずに大坂城で療養している。

三条河原鳥羽・伏見の戦いにおいて敗れた新選組は、幕府軍艦で江戸に戻る。3月、幕府の命を受け、大久保剛と改名した近藤は甲陽鎮撫隊として隊を再編し甲府へ出陣したが、甲州勝沼の戦いで新政府軍に敗れて敗走し、
その際、意見の対立から永倉新八、原田左之助らが離別する。その後、大久保大和と再度名を改め、旧幕府歩兵らを五兵衛新田(現在の東京都足立区綾瀬四丁目)で募集し、4月には下総国流山に屯集するが、香川敬三率いる新政府軍に包囲され、越谷の政府軍本営に出頭する。

しかし、大久保が近藤勇と知る者が政府軍側におり、そのため総督府が置かれた板橋宿まで連行される。近藤は大久保の名を貫き通したが、元隊士で御陵衛士の一人だった加納鷲雄に近藤であると看破され、捕縛された。
その後、土佐藩(谷干城)と薩摩藩との間で、近藤の処遇をめぐり対立が生じたが、結局、4月25日、中仙道板橋宿近くの板橋刑場で斬首された。
享年35(満33歳没)。首は京都の三条河原で梟首された。その後の首の行方は不明である。


榊原鍵吉

(1830-1894)(直心陰流)
さかきばら けんきち、文政13年11月5日(1830年12月19日) - 明治27年(1894年)9月11日)は、幕末から明治にかけての武士、剣術家。
諱は友善(ともよし)。

男谷信友から直心影流男谷派剣術を継承した。明治維新後に撃剣興行を主宰して剣術家を救済したことや、明治20年(1887年)の天覧兜割などで知られ、「最後の侍」と呼ばれる。

文政13年(1830年)、江戸麻布の広尾生まれ。父は御家人・榊原益太郎友直。5人兄弟の長男であった。
天保13年(1842年)、13歳のときに直心影流剣術・男谷信友の道場に入門する。当時、男谷道場は広尾から近い狸穴にあった。しかし、同年に母が没し、父・益太郎は下谷根岸に移ったために狸穴は遠く不便となった。
その上、鍵吉は亡き母に代わって家の雑務や兄弟の面倒を見る必要があった。見かねた男谷は、玄武館・士学館・練兵館など名のある道場の方が近くて便利だと移籍を促した。 しかし鍵吉は、いったん入門した以上は他に移る気はないと言って通い続けた。

鍵吉はめきめき上達したが、家が貧乏なため、進級しても切紙や目録など、費用のかかる免状を求めたことがなかった。嘉永2年(1849年)、男谷は事情を察し、男谷の方で用意を整えてやり、鍵吉に免許皆伝を与えた。

安政3年(1856年)3月、男谷の推薦によって講武所の剣術教授方となる。後に師範役に昇進。

安政7年(1860年)2月、講武所が神田小川町に移転した際、2月3日の開場式に将軍・徳川家茂、大老・井伊直弼ら幕閣が臨席して模範試合が開かれた。鍵吉は槍術の高橋泥舟(謙三郎)と試合した。
すでに高橋は井戸金平と対戦して、相手の得意技である足絡みで勝ち、席を湧かせていた。鍵吉は高橋に勝って、満座の喝采を浴びた。これを家茂が気に入り、鍵吉は将軍の個人教授を務めるようになる。

文久3年(1863年)、将軍上洛に際し、お供をする。二条城内で新規お召し抱えの天野将曹(将監とも)と試合して勝つ。天野は男谷派の同門だが、新規お召し抱えの意地もあって「参った」と言わず、
それならばと鍵吉は激烈な諸手突きを食らわせ天野をひっくり返したという。また、京都の四条河原で土佐藩浪人3人を斬ったともいう。

慶応2年(1866年)7月、家茂が大坂城で没すると、江戸に戻る。11月に講武所が陸軍所と改称、組織替えになると、職を辞して下谷車坂に道場を開いた
慶応4年(1868年)、上野戦争のとき、鍵吉は彰義隊には加盟しなかったが、輪王寺宮公現入道親王(後の北白川宮能久親王)の護衛を務め、土佐藩士数名を斬り倒して、山下の湯屋・越前屋佐兵衛と二人で交互に宮を背負って三河島まで脱出。その後何食わぬ顔で車坂の道場に戻っている。

明治維新後、徳川家臣達に従って駿府に移るが、明治3年(1870年)に再び東京に戻る。明治政府から刑部省大警部として出仕するよう内命があったが、鍵吉は「自身は幕臣である」としてこれを受けず、代わりに弟の大沢鉄三郎を推挙した。

明治5年(1872年)、士分以上の帯刀が禁じられたことで、道場経営が立ちゆかなくなり、警察の武術教授らも不要として職がなくなる。鍵吉は、これら武芸者の救済策として、明治6年(1873年)に「撃剣会」を組織、浅草見附外の左衛門河岸で見世物興行する。これが撃剣興行の始まりで、東京で40数カ所、地方にも及んだ。

明治9年(1876年)、廃刀令が出ると、刀の代わりに「倭杖」(やまとづえ)と称する、帯に掛けるための鉤が付いた木刀(政府に遠慮して杖(つえ)と称していた)と、脇差代わりの「頑固扇」と称する木製の扇を考案し、身に着けた。

明治11年(1878年)、明治天皇が上野に行幸し、天覧試合が挙行された。鍵吉は主宰として審判員を務めた。

明治12年(1879年)、警視庁に撃剣世話掛が創設されると、鍵吉は審査員として採用者を選抜した。

明治20年(1887年)11月11日、明治天皇が伏見宮邸を訪れた際、兜割試合が催された。出場者は警視庁撃剣世話掛の逸見宗助と、同じく上田馬之助、そして鍵吉であった。
逸見、上田は兜を斬れなかったが、鍵吉は名刀「同田貫」を用いて明珍作の兜を三寸五分(11.5cm)斬り割った。

明治27年(1894年)元旦、山田次朗吉に直心影流の免許皆伝を授け、同流第15代と道場を譲る。9月11日、将軍家茂と同じ脚気衝心により没す。
享年65。四谷西応寺に葬られた。法名は義光院杖山倭翁居士。

今日では、鍵吉のことを「撃剣興行によって剣術の命脈を保った功労者」と見る向きが多いが、当時は「(神聖な)剣術を見世物にしている」という批判も少なくなかった。
稽古で長さ六尺、重さ三貫の振り棒を2000回も振ったといわれ、腕周りは55cmあったという。
晩年まで講釈席や居酒屋を経営したが上手くいかず、車坂道場で後進を指導し、著名人が招かれた園遊会などで度々演武を行った。
鍵吉は死ぬまで髷を解かず、道場も閉じなかった。車坂の道場には、英国領事館書記のトーマス・マクラチ、フェンシングの名手でもあったハインリッヒ・シーボルト、ドイツ人の東京帝国大学講師ベルツ、
フランス人ウイラレー及びキール(共に陸軍戸山学校西洋剣術教師)ら外国人も訪れ、鍵吉の指導を受けた。