千葉周作




北辰一刀流玄武館 五行の形

千葉周作は寛政六年(1794年)正月元旦に、陸前国栗原郡花山村荒谷に生れたとされている。出生地を仙台気仙郡気仙村とする説もある。周作の祖

父吉之丞は磐城国相馬中村藩の剣術指南役で、自らの流名を北辰夢想流と称していた。安永の末、故あって浪人し、花山村に移住して医を業とするよ

うになった。 吉之丞の娘は幸右衛門成勝という医師を養子にむかえ、三人の男児をもうけた。幸右衛門も養父におとらない剣の達者で、子供たちに剣

技を授けた。 次男の周作は幼名を於菟松といい、後年桶町千葉といわれる三男定吉とともに、卓抜な素質を示しはじめた。

父幸右衛門は文化六年(1809年)息子たちの将来を考えて郷里を出て、江戸の近郊の松戸に移り住んだ。 彼は名を浦山寿貞とあらため、医業で生計

をたて、三子に文武の修行をおこなわせた。

寿貞は機縁を得て、松戸出身の小野流一刀流中西道場出身の剣士、浅利又七郎義信と知りあった。浅利は若州小浜藩江戸屋敷の剣術師範である。

於菟松は浅利の道場に学ぷうち、師の紹介で旗本喜多村石見守の家来となり、十六歳で周作と改名する。 小野派一刀流中西道場は、当時門弟三千

人と呼号する日本一の大道場で、名剣士を輩出したが、浅利は中でもとくに変った経歴の人物であった。 彼は松戸の貧家に生れ、又七と呼ばれた少

年の頃にはアサリ売りを業としていた。江戸の町を朝の内、売りあるき、仕事を終えると中西道場の片隅に坐って、門弟たちの稽古の様を熱心に眺め

るのを日課とした。 破風造り、間口六間奥行き十二間の大道場の主人忠兵衛は、三年間一日も欠かさず見取り稽古にやってくる又七をみて、ある日

思いつき若い門弟と試合をやらせてみた。 又七は見よう見まねで竹刀をとり立ちあうが、一、二年は剣を学んだほどの駆けひきをしてみせ、忠兵衛は

見所があるとして彼を内弟子とした。
 
彼は、たちまち頭角をあらわし、六、七年後に免許皆伝となる。やがて中西道場より推薦され、小浜藩に仕官したが、アサリ売りの又七の昔を忘れない

ようにと、姓を浅利、名を又七郎義信としたのである。 周作は彼に就いて修行をするが、北辰夢想流の心得があるところへ、懸命の鍛練を重ねたので

、二十三歳で免許皆伝を得た。 浅利又七郎は、彼が凡器ではないことを認め、自らの道場での修行をきりあげさせ、かつての師匠である中西忠兵衛

の道場で、さらに技法の練磨を重ねることにした。 中西の道場には、先代、先々代中西の門下で、組太刀の名人として天下に名高い高崎藩士、寺田

五郎右衛門宗有、試合をさせては天下無敵の名手白井亨、音無し剣法で高名な高柳又四郎の三人がいた。 いずれも天下に強豪の名を誇る名誉の

剣士である。浅利は中西道場に周作をおもむかせるとき、彼にさとした。「寺田の組太刀はさておき、白井、高柳の二人のうちいずれでもよい、十本勝

負で三本、三本勝負で一本を打ちこめるようになれは、お主の技も一流の域に達したことになる」 周作は中西道場で修練を重ねた。

生れついての大器である彼は、先輩の三羽烏に気力で劣るところはなかった。白井亨は組太刀と竹刀をとっての試合剣術で苦労を重ねた人物で、後

進の指導には懇切で、幼年者の養成にも熱心であったが、高柳又四郎は、初心者をも徹底して痛めつけた。 周作は道場で偶象視されている彼らを、

最初から競争者として考えていた。 組太刀の名人寺田は己れの木刀の先からは火炎が出るといい、白井は輪が出るというが、実は火炎も輪も出るも

のではない。 切先がするどく、相手の剣尖を寄せつけないというにすぎないと見て、周作は彼らの技をおそれはしなかった。また、高柳又四郎はいかな

る人と試合をおこなっても、自分の竹刀に相手の竹刀を触れさすことなく、二尺三尺も離れていて勝負を決する名人であるとみていた。 向うの出る頭、

起る頭を打ち、あるいは突きを入れ、けっして我が身に近く寄せつけず、向うが一歩進みでたところを見計らい、こちらよりも踏み出て打つため、他流試

合で一度も敗けたことがない。 しかし、突きなどは道具はずれを往々にして狽い、邪剣の傾向があると周作は観察している。 

そのうえ、高柳は他人に技を磨かすような稽古はせず、ひたすら己れの技を磨くことのみ心掛けるため、初心者にもわざと打たすことはせず、教導者と

しての資格に乏しいと冷静な分析をしていた。

周作は寺田の木刀での組太刀剣法が、面寵手つけての竹刀剣法と試合をして、相手の動きをいちはやく見切り、先手をとって凄まじい威力を発揮する

様を眼の辺りにして、考える。「組太刀、あるいは形と申すのは理である。竹刀打ちは業であれは、理業兼備の修行をしてこそ、真の勝負に勝てるので

ある」 彼は打たれて修行することを、心得ていた。

その意は、稽古相手にやたらと打たれればよいというのではない。稽古に際し、自分の不得意な業を試みねばならないというのである。普通は、稽古に

際しては自分の得意な業をくりだし、相手を圧倒したがるものだが、それでは上達が遅いと彼は考える。不得意な技を用いれば、はじめのうちは相手に

打たれ突かれて、はなはだ具合がわるいが、そのような稽古を重ねたうえで、はじめて上手巧者となると覚っていた。 周作は徹底した合理主義者で、

自らの技法を精密に分析し、微妙な極意を体得してゆく。 三年の修行の後に、彼は高柳又四郎に音無しの構えを許さないまでに上達し、白井亨とも五

分の稽古をおこなえるようになった。

周作が中西道場の免許皆伝をうける当日、御祝儀試合の相手として高柳又四郎がえらばれた。 御祝儀試合では、免許皆伝をうける者の門出を祝い

、師匠か先輩が相手となり、花を持たせてやるのが慣例であったが、高柳が相手ではそのような甘い勝負は望めない。初心者の弟子にも容赦なく打ち

こむ、情知らずの剣術を身上としている高柳に勝つには、実力をもってするほかはない。

試合の相手に高柳が立ったのは、浅利又七郎の希望によるものであった。浅利は愛弟子の実力がどれほどのものであるかを、知りたかったのである。

御祝儀試合には勝敗の見分役が付かないことになっていたが、この日は寺田五郎右衛門が見分役についた。

周作と高柳は寺田の指図で互いに竹刀を交して立った。 高柳は一刀流正規の構えである、中段青限をとった。周作は左上段に構える。高柳は他流試

合ではかならず後の先の技で、相手を打ちこんで勝ちを得る。 周作が高柳に遅れをとった場合も、つねに後の先で決められた。高柳はわれから進ん

で打ちこむことはせず、かならず相手の出ばなをとらえ、不敗の記録をのばしていた。 

相手よりわずかにおくれて打ちこみながら、太刀先は相手の体に紙一重の早さで届くのが、後の先の太刀である。

周作は三年のあいだに高柳の業を見極めていた。彼とおなじ中段青眼では、どのように打ちこんでも後の先をとられると知っている。そのため一刀流組

形にない上段をとった。 二人はわずかに爪先を動かしつつ間合いをとりあい、機をうかがう。周作はこちらから打ちこめば、技を返されるのを、充分承

知していた。 体がひとつの構えに居つかないように、わずかに移動しながら、気合をかけることもなく、静寂のうちに時が過ぎた。大道場に居流れた中

西忠兵衛以下、同門の剣士たちは、粛然と見守っている。小半刻(三十分)が過ぎた。 周作は突然、双手上段の構えから疲労したかのようにみせて右

手をはずし、左片手上段で一歩後ずさった。誘いの隙である。とっさに高柳の竹刀が周作の喉元に閃く。勝負が決ったかと思われた瞬間、周作の片手

上段の竹刀が高柳の面をとった。「相討ち、勝負なし」  寺田が、すかさず叫んだ。 周作は面を打って踏み込んだ拍子に、一寸二分(約四センチ)の

床板を踏み割っていた。床板はその日のうちに切りとられ、額に納めて後進のはげみとするために、道場に掲げられることになった。浅利道場にもどっ

た周作は、一刀流の改良を思いたち、浅利又七郎に組太刀を変えることを進言した。浅利は周作を道場の後継者ときめ、彼を浅利家の養子とし、姪を

めとらせ酒井藩指南役の座を譲ったが、一刀流の改良には頑強に反対した。 彼は義父に従うか、自らの信ずるところに従うか、煩悶を重ねたあげく、

妻とともに浅利家を出る決心をした。 彼はいう。

「去らんかな、去らんかな。われまさにここを去るべきのみ。それ剣道の要は、多数の子弟を教養して、国家を護らせんとするにあり。教練の方法、後進

に不利なるを知りつつ、己れの私情に殉じて己れを改むることを為さず、自己の所信をまげて子弟の教導を誤るがごときは、けっして丈夫の潔しとせざ

るところなり。去らんかな、去らんかな。われ父子の義を断って去るべきのみ」

周作は自らの剣法の流儀を、祖父の北辰夢想流にならい、北辰一刀流と名づけ一派をたてるが、世上の批難は彼にあつまった。

養父を捨て、小野派一刀流に対抗して新流派をたてた周作は、武士の風上に置けない不徳義漢であるというのである。周作は自分への風当りがあまり

にも強いのに驚く。そのうち、浅利の門弟たちの内で、彼を襲うとたくらむ者がいるという噂がたった。同じ一刀流を学ぷ者の内で、骨肉相食む争闘を起

こすのは見苦しい。周作は、ほとぼりのさめるまで江戸を離れ、武者修行の遍歴に出ることにした。

文政三年(1820年)、二十七歳の周作は、上州出身の吉田川という相撲取りを道案内として高崎に行く。さらに信州、甲州を経て駿河、遠州、三河と廻

国をかさね、ふたたぴ高崎にもどった。

彼は高崎で念流の達人小泉源十郎と試合をおこなって破り、小泉は彼の門下となった。小泉の紹介で念流の剣客たちが彼の門にあつまり、数ヶ月の

滞在の内に百余人の門下が、彼の教えを請うようになった。一年余の高崎滞在の後、周作は江戸に戻り、文政五年一月にまた上州への旅に出る。月

の半ばを高崎小泉道場で弟子の育成にあたった後は、伊香保温泉の木暮武太夫方に逗留して残りの半月を過ごすという、余裕のある生活であったが

、門弟の彼に対する支持は熱烈なものであった。

彼の指導方針は理にかない、弟子の長所を導きだすのに巧妙を極めたためである。上州での彼の名声が高まってきたとき、偏額騒動が起こった。

周作が小泉らの希望をいれ、門弟一同百余人の姓名を列挙した額を、伊香保神社に奉納しようとするが、地元の馬庭念流樋口一門の怒りを買った。

千余人の念流門下生と、周作門下百余人がたがいに譲らず、乱闘をも辞さない意気込みで騒動を起こすが、周作は公法を守って暴発を許さなかった。

さいわい、地元の代官の仲裁で双方の和解がととのったが事件の詳細を滝沢馬琴が「伊香保の額論」と題し、小説として売り出したため、千葉周作の

名は天下に広まることになった。 

伊香保騒動の解決した文政五年(1822年)の秋、周作は江戸に戻り、北辰一刀流道場玄武館を日本橋に開設した。

二十九歳の周作の教授法は理にかない適切であるので、弟子はたちまち増加する。 北辰一刀流の組太刀は、従来の小野派一刀流のものに自己創

案の五本、相小太刀の組太刀六本を加える。

また小野派一刀流では、小太刀から師範免状まで、昇段制度が八段階に分けられていたのを、初目録、中目録、大目録皆伝とした。

試合に際しては、下段青限を本来の構えとしている一刀流の慣わしにこだわることなく、臨機応変にいかなる構えをとっても自由であるとする。 組太刀

の説明、剣技の指導は実地に即して平易な言葉を用い、弟子たちが理解しやすいように留意する。一刀流宗家の伝統を墨守する中西道場、浅利道場

からみれば、許せない反逆者である周作は、策師とかげぐちをたたかれ批判を受けるが、旧来の因習を打ちやぷらねば進歩はないとして、ひるまなか

った。

その後、北辰一刀流の清新な剣技を慕い入門する弟子の数はおぴただしく、日本橋の道場は手狭になったため、三年めには神田お玉ケ池に移転する

。   道場の規模は、将軍家師範の柳生道場と同格の八間四面で、玄関は豪壮な破風造りであった。敷地は三千六百坪と広大なもので、北辰一刀流

は江戸で剣法の双璧といわれた直心影流、小野派一刀流を凌駕する勢いをそなえてきた。

広大な敷地の内には、遠国からの修行者や諸大名から委託された門人たちのため、二階建ての寄宿舎を設けた。嘉永四年(1851年)には一族一門三

千余人の名を記した額を浅草観音堂に奉納し、彼が生涯を通じてとりたてた門人の数は、六千人を超すといわれたほどの繁栄をつづけた。

周作の門下で天下に名を知られた剣士の数は、海保帆平、井上八郎、圧司弁舌、高坂昌孝など十数人に及ぷ。津川八郎、有村治左衛門も千葉門下

であった。 海保帆平は上州安中藩士の子息であったが千葉道場で研鑽をかさね、十九歳で大目録免許皆伝となり、同時に水戸藩に五百石で仕官し

て世上をおどろかせた人物である。 井上八郎は日向国延岡城下の豆腐屋の娘の私生児であった。父は井上主衛という内藤藩の重臣であるが、親子

の名乗りをしなかった。 八郎は十五歳のとき発奮して江戸に出る。周作の弟定告が入門を志願する彼と会い、身上話を聞いて内弟子にむかえいれる

ことにきめた。

八郎は海保のような天才ではなかったが、周作の教えを忠実に守り、たゆまず稽古をつづけた。周作はいう。「剣術を学ぷ者は初心のうちは師の教え

に従うて、一心不乱に稽古をすれば、自然と妙処に立ちいたるものである。仏道において、ただ一心に念仏を唱えれば、自然に悪念は消えうせて善心

となり、極楽へ行けるというが、剣術もそれとおなじ理である。稽古の数さえ積めば、おのずと微妙の域に立ちいたることができるのである」 八郎は海

保が五年間で大目録免許皆伝を得たのに比べ、十三年かけてようやく大目録にたどりつく。 だがその後の栄達はめざましかった。幕府講武所教授方

となり、のちに歩兵頭から歩兵奉行に累進し、さらに遊撃隊長兼帯となって役高五千石、一カ月の役手当が百八両という大身となった。鏡心明智流桃井

春蔵、神道無念流斎藤弥九郎、心形刀流伊庭軍兵衛の道場とならび、江戸四大道場の筆頭に置かれたお玉ケ池北辰一刀流道場の隆盛を招いた千

葉周作の剣法は、どのようなものであったのか。

周作は容貌魁偉、身長は六尺にちかく、六寸厚みの碁盤を片手に持ち、五十匁掛けの蝋燭の火を煽ぎ消したといわれる大力者であったが、彼の説く

剣法に豪傑風のきらいはない。

千葉周作遺稿及び、門下の高坂昌孝の著した千葉先生直伝剣術名人法、広瀬真平の編輯した剣法秘訣を一読すれば、周作の剣術理論がそのまま

現代剣道の金科玉条となりうるほど、剣の真髄を精細に説きあかしている事実に、おどろかざるをえない。彼が剣術者のうちでもまれにみる明敏な人物

であったことは、行間に立証されている。 周作はまず修行にあたっては、おどろき、おそれ、うたがい、まどいの四つの感情をおさえねば、剣術の上達

は期しがたいとする。このうちのひとつでも心中に存在すれば、敵の機先を制し勝利を得ることができないというのである。初心者に与える修行の最初

の心得は、読んでみて拍子抜けをおぼえるほどの平明な内容である。

彼は竹刀の使いかたの上手下手にこだわることはない、ひたすら振りまわす運動に慣れよと説く。 考えてみれば、竹刀を相手よりも早くふりまわせる

のは、勝利を得るための必須の条件である。

周作は実地に役立つ業前を教える前に、動作の俊敏迅速を会得させようとしたわけである。 つぎに柄の握りかたを説明する。「あまたの修行者が多年

のあいだ鍛錬稽古をおこなってみて、手のうちの堅い者、すなわち柄の持ちかたの堅い者は、技が遅鈍で進歩ははなはだ遅いという傾向がある。手の

うちが堅くも柔らかくもなく、中庸を得ている者は、動作が敏捷で進歩がすみやかである。竹刀を執るときは小指をすこしく締め、くすり指を軽くし、中指は

さら軽く、人差し指は添え指と称して添えるほどにしておく。相手を撃ち、突くときにはじめて強く握ればよいのである。そうでなければ竹刀を活発自在に

ふりまわしにくいのみか、撃ち突きに及んで刀勢が強くならないことになる」 柄の握りかたについて、これほど丁寧にかみくだいて教えた師範は、当時

では周作のほかにはいなかった。

竹刀をとっての撃ちあいのとき、両足位置の利害については、まず左右両足の距離をせまくせよと説く。そうすれば、うちこむとき前へ大きく動けるので

ある。 また両足ともに軽く踏みすえて動くのであるが、左足は爪先のみを踏みつけ、踵は浮かせ、運動を自由におこなえるように努めよという。 左足

の運動が由由であれは、相手に打ちこまれても迅速に進退することができる。また相手から体当りをうけたときも、これに応じて受け支え、巧みに転倒

をまぬがれることができるという。 左右の足を大きくひらいて踏み、どちらの踵も床につけたベタ足では、技は自然に遅鈍となり、見るに堪えないと周作

は説くのである。

彼我剣尖をまじえ、立ちあうときは、ただちに切先で相手を責め、相手がもし出てくれば撃つぞ突くぞという気合をみせることが肝要であるとする。切先

は常に鶺鴒の尾のようにふりうごかし、間断なく爛々と威勢を示して、相手の視線な乱すよう心掛けるのである。 稽古の場では、休息のときもなお気合

をゆるめず、他人の打ちあいを注目して見取り稽古をせねばならない。他人の巧妙な技を見たときはそれを記憶に銘記し、習練して身につけるようにす

る。

地稽古で立ちあうときには、相手に打撃を与えることに心をかたむけず、受けとめかたにばかり意を傾けては、技術が向上せず、ついに実際に威力の

ない死に技ばかりが身につくようになる。

撃剣上達の域に達するには二つの方途がある。理より修行に入る者を甲とする。甲はまず思慮をめぐらし、剣理を考えてのちにその技を実際に練るも

のである。 

技より入るものを乙とする。乙は実際の打ちあいにのみ専念し、剣理をまったく考えない。剣法は剣によって攻撃防守の技に熟達するのを主限とするの

だから、そのいずれによっても所期の目的を達すればよい。

しかし、平素の意志が甲に属するものは、相手の機先を察することに鋭敏で、技の進歩がはなはだすみやかである。

これに反し、平素の意志が乙にあるものは、相手の機先を察することに鈍く、単に打ちあいのみに心身を労し、失敗によって身に痛手を重ね与えつつ、

長年月をかけてようやく熟達の域に達することができる。 ゆえに剣法を修める者は、常に平素の意志を甲に置き、常に剣理を考究しなければならない

。剣理を考えつつ実技の鍛錬をおこなえば、その進展は刮目すベきものがあるだろう。

このような剣の理論を、周作は初心者に説いた。彼は総論に属する剣理の分析においてすでに余人の及ばない緻密な展開をみせる。ここにあげたの

は、総論のうちのごく一部であるが、読みすすむうちに、師匠として卓抜な才を備えていた周作の内容が、あまりにもあぎやかに限前にあらわれてきて

息づまるような思いがする。 このような先達を得た門弟たちは、幸運をよろこぴ、ふかく心服したであろうことは想像するに難くない。

宮本武蔵の兵法三十五力条、五輪書にも、実際に即した剣の理論が開陳されており、その迫力は非凡なものがあるが、周作の理論のほうが、現代人

に身近なものであるのはいうまでもない。

身体長大なる人に対する法。相手に隙なきときに隙を生ぜしむる手段。連勝のときはときどき構えを変えよ。相青限または相下段のときの心得。間合

いの心得など、各論にわたる技法の説明は、いずれを読んでも聡明な師に手をとって教示をうけているときのような、陶酔感さえ誘われる、痒いところに

手のとどく内容である。

各論のうちに、相手より刺撃を受けうけたるときの心得というのがある。「相手がわが面へ打ってくれば、その竹刀を受け払いつつ相手の胴か面をうち、

小手へ打ってくればその剣尖を打ちおとして突くか面を打つ。さらに突いてくれば、これを擦り払い、面か懸け小手を打つ。防守攻撃に種々の技があり、

それを知るにこしたことはないが、以上の三手に熟達すれば、わが術の乏しさを嘆かずに、充分に応対できるものである」

また、他流試合の心得には、軽進をつつしむペしというのがある。 重要な試合においては、相手から遠く離れて身を固め、相手が出てくればそれに応

じて退き、相手が退けば進みでる。そうして隙をみせなければ、試合が終日かかっても失敗を免れるものであるとする。 また、「相手の虚威はわれに利

あり」という教条がある。「他流には眼をいからせ、肩を張る者がいる。著しく虚勢を張ってこちらの勇気を挫き勝ちを制しようとするのだが、まったく怖れ

るにあたらない。そのような者には、はなはだ畏縮したような態度を示して、騎りたかぷらせておき、ひそかにその隙をうかがって一刀撃突して一気に相

手の気勢を挫けばよい。これに反し、真に勇気あるものは外見は柔弱にみえるが、用心してかからねばならない」 真剣勝負の心得としても、注目すべ

き教示をおこなっている。

すなわち、勝ちを得るには、相手の拳をわずかに斬ればよいというのである。そうすれば、相手は充分に柄を握ることができなくなり、かりに握り得たと

しても充分に刀を振り回せないため、進退がたちまちきわまるからである。

周作の剣戒にいう。

一、剣術に三声あり。一は勝を敵に知らす声にて、これを大きく掛ければ、敵恐れて後を掛けぬものなり。一は敵追込み来り打たん、突かんの意、見ゆ

るとき。こなたより大声をかければ敵は悟られしかと疑議す。その所を打ちこむなり。一は敵を追い込みしとき。こなたより声をかければ畏縮して無理な

る手を下すものなり。その場をつけこみ勝を得ることなり。

一、また三の挫きということあり。一つは太刀を殺し、一つは業を殺し、一つは気を殺すなり。太刀を殺すとは、敵の太刀を左右に支えあるいは払いて、

切先を立てさせぬをいう。業を殺すとは、敵手巧者にて二段突き、突き掛け、諸手突きなどを試みて不成功にかまわず手元へ繰りこみ透き間なく足搦、

体当り、捩じ倒しなどを三、四度してその勢いを削ぎ業をさせぬを云う。気を殺すとは此方奮進の勢を以て上の仕掛けを頻発すれば、勇気に圧せられて

気力の進まず、挫けて遣いよくなるものなり。

一、猶予せぬこと三あり。敵の出鼻。打太刀を受止めたる場合。敵の手段尽きたるところ。此の三はのがすべからず。繁くたたみかくれば勝を得べし。

一、心意識という三要素あり。心とは全体に配る所。意とは左せん右せんと案ずる所。識とはいよいよ見定めて所思を行う所をいう。敵を打つには意の

   所を打つべし。俗に意は思いの起頭にて未だ迷いの存するなり。此後を打ち、受け、突くなどせば既に所思の定まるところ、相討ちを免れざるなり   。

周作が剣をとる心構えと技術の両面にわたって詳しく説き、あますところがないのはこの叙述みれば納得できよう。彼は剣をとっては鬼神を凌ぐ力量を

そなえているとともに、門下の青年たちを器量に応じ訓練し、長所を伸ばす教育の才を備えていた合理主義者であった。近代剣道の親と呼ぷにふさわ

しい人物ではなかろうか。



津本 陽 「日本剣客列伝」より