柳生宗矩





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柳生但馬守宗矩は、石舟斎宗厳の五男である。元亀二年(1571年)の出生で、母は賢夫人の名をうたわれた春桃御前である。

彼の生家は、奈良市から東北へ15、6キロの距離にある、小柳生庄を所領とする豪族であった。

平安時代の初期、柳生郷は神戸四方郷と呼ばれ、関白藤原基経の荘園であった。四力郷とは、大柳生庄、坂浜原庄、小柳生庄、邑地庄で

ある。                                            

そのうち小柳生庄を管理していた在官の大膳永家という豪族が、柳生家の祖である。鎌倉期入り、大膳の姓が柳生とあらためられ、小柳生

の領主となったわけである。                                         

柳生氏は元弘年間に至り、後醍醐天皇の陣営に参加し南朝に与したため、笠置落城ののち所領を没収されるが、建武の中興のときに旧

領を回復した。 さらに二百年余を経て戦国時代をむかえた柳生氏は、動乱のうちに変転する弱小豪族の悲哀味わうことになる。

天文十三年(1544年)管領細川方に与して三好勢と戦っていた柳生美作守家厳は、七月末に三好方の筒井順昭の猛攻をうけ、小柳生城

にたてこもるが、寡勢のため支えきれず、降伏する。 このとき家厳の息子石舟斎宗厳は十八歳であった。敗軍ののちは筒井勢に加えられ

、各所に転戦することとなったが、永禄二年(1559年)に至り、筒井氏に雪辱する機会を得た。

織田信長の意を受け、大和侵略の軍を進めた松永久秀勢に参じ、筒井勢に謀叛したのである。

柳生勢は多武峰で強敵と激戦を交え、これを粉砕して松永久秀から感状を受けた。この年、石舟斎は上泉伊勢守秀綱(信網)と会うことに

なる。 石舟斎は当時新当流の遣い手として、畿内はもとより遠国にまで名を知られていた。彼は奈良で上泉伊勢守と弟子の匹田景兼らに

会い、手合せをしてみて自らの技量が遠く及ばないのを知ると、教えを乞うた。

伊勢守は石舟斎に新陰流の剣を教え、「無刀」の技の研鑽を、公案として残したようである。

彼はかつて尾張の妙興寺の庭前で、刀をたずさえた狂人を素手で抑えたときに覚った「無刀」の極意を、石舟斎に伝授したのである。

石舟斎は伊勢守から永禄八年(一五六五)新陰流の印可状を授けられた。この年、足利十三代将軍義輝は松永久秀に殺された。

久秀は東大寺大仏殿を焼尽し、信長に背いては和睦し、複雑な行動をみせるが、天正五年(1577年)には信貴山城で自滅した。

宗矩が生れた年、長兄新次郎厳勝が合戦に出て腰を鉄砲で撃たれ、不具となった。石舟斎は厳勝とともに柳生に隠棲し、兵法ひとすじに生

きようとするが、天正十三年(1585年)隠し田があったという廉で、豊臣家から領地を没収され、一家離散の有様となった。 宗矩はこのと

き十五歳である。

彼らは諸方を流浪する剣客として、貧困に耐える八年余の歳月を過ごす。 この間、柳生一族がどこで暮らしていたかは定かではない。

文禄三年(1954年)五月、徳川家康は石舟斎を京都へ呼んだ。当時柳生に戻っていた石舟斎の剣名を聞き、その技を見ようとしたのであ

る。自らも剣術の巧者であった家康ほ、紫竹村鷹ケ峰という在所で石舟斎と逢い、「無刀」の技を試した。

石舟斎はすでに六十八歳であった。五十三歳の家康は木刀を構えていう。 「これを取ってみよ」 石舟斎は打ちかかる家康を体当りで一瞬

に倒し、木刀を奪った。 「いま一度勝負せい」  家康は体勢をたてなおして石舟斎にむかったが、ふたたび木刀を奪われた。 家康は石

舟斎の技量に感嘆し、神文誓紙をいれて弟子の礼をとり、彼を師範に迎えようとした。

「無刀」とはどのような技であったのか分らないが、腕に覚えのある家康が木刀を構えて向いあい、二度まで素手の石舟斎を打てないのみ

か、わが手中の得物を取られたというのだから、入神の技であることは間違いない。「無刀」がいかに困難な技であるかは、人体の動きと、

刀の動きの速度を比較すればわかることである。

刀を構えている相手に正面からどのようにして掛かるか。  刀身を一閃させれば、いかに迅速に手許へ飛びこもうとしても、斬られることは

間違いない。

相手が斬りこんできたのを、体をかわして入身技で飛びこみ、手許を押えることは考えうるが、上段や中段、下段に構えて待ちうけていると

ころへ素手で近寄るのは、自殺行為以外のなにものでもない。

伝書にいう。「無刀とは、取られまいとする刀を無理にとる技ではない。取られまいとする刀を取らぬのも、無刀である。取られまいとする相

手は、こちらを斬れない。

無刀とは斬られぬことを勝とする技である。相手の刀をとるのを芸とするわけではない。刀を持っていないときに、斬られないようにする技で

ある。 無刀とは諸道具を自由に使うための技である。刀を持つ相手に手を道具にして立ちむかい、刀を奪いとればそれを使えばよい。扇

子があればそれを使い、竹杖があればそれで敵をあしらうのは、皆、無刀の呼吸である。

無刀で敵と向いあえば、刀は長く、手は短かい。近づけばたちまち斬られる。敵が打ちこんできたときに体をかわし、わが身が敵の太刀の

柄の下になったとき、はじめて押えることができるのである」この説明を読めば、「無刀」の技が魔法、手品に類するものではなく、敵の打ち

こんできた剣を、身をかわして奪いとる合理的な動作であると分る。

「無刀」の技を行う場合の身構え、進退には秘伝とするところがあり、石舟斎は上泉伊勢守から継承した呼吸のすべてを、我がものとしてい

たのである。 

家康は景則の腰のものを石舟斎に与え、仕官をすすめたが、石舟斎は老年のゆえをもって勧誘を辞退し、同道していた五男の宗矩を家康

のもとにとどめ、柳生に戻った。

宗矩はこのとき二十四歳であった。家康は鷹ケ峰に野陣を張り、秀吉の命に従い伏見城築城工事に加勢していた。

文禄三年は、秀吉の日本軍が朝鮮に出兵して三年めにあたっていた。家康は大明国と事をかまえるよりも、内治に意をそそいだほうがよい

と判断していたが、秀吉に従わざるを得なかった。

彼は旧領の駿遠参から関八州へ領地を移されて間もなく、内外にさまざまの難問を抱いていた。

「生きた名剣」といわれるほどの達人の域に達していた宗矩は、家康の側近にいて彼と嫡男秀忠に新陰流を教授するかたわら、徳川藩政

の中枢にいて、家康の腹心となった。

慶長3年(1598年)秀吉が死ぬと、家康の諸侯のうちでの立場は、秀頼に対する存在として重きをなすようになった。

慶長5年(1600年)関ヶ原の役に先立って、宗矩は家康の親書を抱き、柳生に戻った。書面の内容は、筒井をはじめとする大和の諸豪族を

糾合し、石田方西軍の後方攪乱を行うよう、石舟斎に命じた

ものであった。役後、柳生家は功績を賞せられ、かつて秀吉が没収した旧柳生領2千石が石舟斎に与えられる。さらに翌年千石の加増が

行われた。

宗矩はこの年、秀忠の兵法師範に任命された。それまでは政治の表面に姿をみせなかった彼に、正式に資格が与えられたのである。

慶長8年には家康に将軍宣下があり、10年には秀忠が2代将軍となった。柳生新陰流は将軍師範、治国平天下の剣として確立された。

慶長11年(1606年)石舟斎は世を去った。その後も宗矩は出世の一路を辿ってゆく。

元和7年(1621年)秀忠の嗣子家光が誓詞をいれ、宗矩を師範とすることになった。元和9年に家光は三代将軍となる。宗矩は53歳で2代

にわたる将軍の師範となったわけである。

寛永6年(1629年)3月、従五位下但馬守に任ぜられ、9年12月には幕府惣目付となり三千石加増。職名はのちに大目付と変わるが、諸侯

の動静を探り監察を司る重職であった。

寛永13年には、さらに四千石を加増され、一万石となって諸侯に列した。家光側近として政機に参与するにふさわしい地位を得たわけであ

る。

元和元年(1615年)大阪夏の陣ののち、坂崎出羽守が論功を不満として叛意を示したとき、彼は順逆を説いて平穏裡に坂崎を切腹させた。

また、島原の乱のとき、宗矩は坂倉内膳正が討手の大将に任命され江戸を出立したと聞くや、ひきとめようと馬を駆って品川宿まで追った

が、追いつけなかった。やむなく、引き返して夜中江戸城の家光に伺候して告げる。

「宗門の軍は、なみの一揆とはことなり、戦気旺盛でござれば、西国諸大名が坂倉の下知に従わざるときは、凶徒の勢いは淐獗いたすもの

と存じます。

そのときは坂倉の討死は必定でござりましょう。坂倉より位階の高き者を総大将にえらばねば、あたら失うに惜しき武夫を失うことになろうか

と存じまする大樹様の御諚あらば下拙が坂倉のあとを追い、引き止めまする」家光は、そのとき宗矩の諫言を聞かなかったが、事態は宗矩

の予測通りに展開し、重昌は討死した。宗矩の深慮に家光はいまさらのように感心せざるをえなかった。

宗矩が幕閣で異数の栄進をみせたのは、家康、秀忠、家光三代にわたって側近に侍し、信頼されたためであったが、彼の剣の技量はどれ

ほどのものであったのだろうか。彼が柳生新陰流にいう殺人刀を振った記録は、大阪夏の陣の際に残されている。

木村重成の一族である主計が、素肌武者数十人を率い、将軍秀忠の本陣に決死の猛攻をおこなったときのことである。東軍は木村勢に攻

め立てられ混乱状態に陥り、敵は秀忠の眼前に迫った。

宗矩は秀忠の馬前に立ち、敵7人を倒し、危機を免れしめたのである。

宗矩が剣をふるう機会は、その後訪れなかったようであるが、名人としての彼の技量を証する逸話は多く残されている。

宗矩が奥義を極めた柳生新陰流は、ひきはだという袋撓を持って稽古することに特徴があった。

ひきはだ撓は、牛馬の良質の皮を選んで、漆をかけて引き締めてつくる。皮の表面に走る無数の皺がひき蛙の肌に似ているところから、ひ

きはだと呼ばれるようになった。ひきはだの袋に包みこむ中身の竹は、試合に用いるものは二つ割りか四つ割りである。稽古用のものは柄

七寸は竹の姿のままに置き、刀身は細かく割り、二尺五寸の長さにひきはだをかぶせるのである。

袋撓を用いれば、真剣での斬り合いと同様にうちあうことができる。袋撓を用いない他流派は稽古に木剣を用い、叩いたり突いたりする危

険を避けるため、相手の木太刀を打ち落とすか、鍔元まで詰め寄ることで、勝敗を競っていた。

柳生新陰流の仕掛太刀の内容は、三学、九箇必勝、天狗抄、猿飛に分かれ、ほかに小太刀の技を丸橋としている。

三学には一刀両断、斬釘截鉄、半開半向、右転左転、長短一味の五種の太刀数がある。いずれも手と足の働きに工夫をこらし、敵が打ち

込んでくるのを待って後の先の太刀を振るい、勝ちを得る方法で、合撃とも呼ぶものである。

三学とは、禅にいう戒、定、慧のことである。すなわち戒は兵法の禁戒を守り、定は心を静め散乱することなきこと、慧は敵と己をあきらかに

観照することの意である。

合撃(がつしうち)とはいかなる技であるかを、一刀両断で見てみよう。両断とは碧巌録第63則にあらわれている言葉で、敵を天地の両断に

断ち切ることをいう。

古式の陰流では、まず敵と対するとき、刀を脇構えに構え、敵が仕掛けてくるのを待っている。敵は八双に構えて迫り、こちらの肩に袈裟が

けに斬り込んでくる。そのとき、後ろに引いていた右足を、車の輪が回るように前に出し、左足と踏み変えて敵の柄中へ斬り込んで勝つ技法

である。

新陰流の上泉伊勢守は、足を踏み変えていては動作が遅れるとして、足は踏み変えず、そのまま柄中を斬って勝つというふうに技の内容を

変更した。

上泉の時代では車の構えに身掛かりという、重心を落とした姿勢をとっていた。その理由は、甲冑武者を斬らねばならない機会がまだ多か

ったため、太刀捌きに全身の力をこめる必要があったからである。

柳生新陰流ではさらに改良され、後年、宗矩の甥である兵庫助にいたって、完璧な合撃の技法が完成される。

柳生流の一刀両断は、見る者の肌に粟を生じさせるほどの凄みがある。 まず低めの中段に構えて敵を待ち、真っ向から頭上へ斬り込ん

でくるのに合わせ、こいらからも上段に振りかぶってまっすぐ斬り込んで勝つ技法であるが、実戦でこの技を使われた相手は、防ぎようもなく

斬られるにちがいない。

なぜ、相手が受け手の合わせ技を防げないかといえば、すでにこちらの面を狙い、打ちこんできているため、もはやその動きを止められな

いからである。

受け手の方は、その場に立ったまま面を打つ。そうすれば、離れた位置から飛び込んでくる敵の剣尖がこちらの頭上に達する前に、敵の頭

に斬り込むことができる。撃尺の間合いから飛び込んでくるのに要する時間よりも、中段から振り上げて振り下ろす時間の方がわずかに短

く、受け手は間一髪の差で確実な勝利を得るのである。 勝ちを得るためのわずかな時間差を生み出すのが合撃(がつしうち)の技で、この

技を身につけておれば、敵を必ず倒すことができるわけであった。

九箇必勝の太刀は、片手太刀、逆風、十太刀、和ト、捷径、小詰、大詰、八重垣、村雲、の九種である。

いずれも、待ちかまえていて出てこない敵に仕掛け、変化に導いて勝つ技法である。

天狗抄は、花車、明身、善待、手引、乱剣、二具足、打物、二人懸かり、の八種がある。この技法は、相手が待ちの態勢をとっているとき、

こちらから仕掛けて表裏をもって破るものである。

猿飛には猿飛、猿廻、月陰、浦波、浮舟、折甲、棒刀、の八種があり、急激な技の変化で相手を混乱させて勝つ技法。

丸橋とは、丸木橋を渡るときのように、我が身の中心の位を保って敵の太刀先三寸へ小太刀をつけ、鍔を楯とし戦う法である。

柳生新陰流の洗練の極みに達した太刀技の味は、道場稽古を一見すればわかるものである。どの技も理詰めの動きで有無をいわさず敵

を破局へ追い込んでゆく、凄味に満ちている。治国平天下の太刀とは、徹頭徹尾相手の動きを利して完璧な勝利を得る、理詰めの剣であっ

た。その内容はいかにも将軍家御流儀にふさわしい、絢爛とさえ思えるほどの超高度の技に満たされている。柳生新陰流を父石舟斎から

受け継ぎ、大成させた宗矩の剣技が、いかなる心構えによって支えられていたかは、彼の兵法論である兵法家伝書をひもとけば想像のつく

ことである。

伝書にいう「様々の習いをつくして、習い、稽古の修行功つもりねれば、手足身の所作はありて、心になくなり、習をはなれて習にたがわず、

何事もする技自由なり。このときは我が心いずくにありとも知れず。天魔外道も我が心をうかがい得ざるなり」様々な修練をつくして、稽古を

充分に積めば、頭で考えることもないままに手足を動かすことができるようになり、それによって訓練の成果を生かすことができ、あらゆる技

を自由に打ち出すことができるようになる。この境地になれば、自分の心の動きを天魔のたぐいといえども、察知することができなくなるとい

う意味である。

「この位に至らんための習いなり。ならい得たれば、また習わなくなるなり。これが諸道の極意向上なり」

習練はこの境地に達するためにおこなうものである。習練を行い極めることにより習練から離れ去る無我の境地に至るのが、極意に至る道

であると説く宗矩は敵をおびき出す術として、懸待の道理をあげる。「身と太刀とに懸待の道理ある事、身をば敵近くふりかけて懸になし、太

刀は待になして、身足手にて敵の先をおびき出して、敵に先をさせて勝つなり。ここを以て身足は懸に、太刀は待なり。身足を懸にするは、

敵に先をさせんためなり」体と太刀とには、「懸」と「待」の道理がある。体は敵に向かい乗り出していまにもかかるぞとみせかけ、太刀は相

手の動きに応じて受けようという用意をととのえることをいう。

体、足、手の動きで敵を釣りだし、先手をとろうとさせ、後の先の技をかけ、勝を得る。このため体と足は敵にかかるとみせ、太刀は待つの

である。体と足を懸にするのは敵に先手をとらせるため、という意である。

宗矩は敵に対する目づかいでも、独特の意見を述べている。「待なる敵に様々表裏をしかけて、敵のはたらきを見るに、見る様にして見ず、

見ぬようにして見て、間々に油断なく、一所に目をおかず、目を移して着々と見るなり。」つまりトンボは盗み見をしつつ、モズの襲撃を避ける

という句のように、敵の動きを盗み見しつつ油断なく動くべきである。能には一方を見ながら他方へ目を移してゆく二目づかいという法がある

が、このように一カ所に視線をとどめないのが極意であるという。接戦の心得に、宗矩の秋霜烈日ともいうべき厳しい内面があらわれている。

「人を一刀きる事はたやすし。人に斬られぬ事はなりがたきものなり。人は斬ると思うて打ちつけるとも、ままよ、身に当たらぬつもりを、とく

と合点しておどろかず。敵にうたるるなり。敵はあたると思う

て打てども、つもりあればあたらぬなり。当たらぬ太刀は死太刀なり。そこをこちらから越して打って勝つなり。敵のする先ははずれて、我返

りて先の太刀を敵へ入るるなり。一太刀打ってからは、はや手はあげさせぬなり。打ち手よりもうこうよと思うたるは、この太刀は又、敵に必

ず打たるべし。ここにて油断して負くるなり。打ったるところは斬れようと斬れまいとまま、心をとどむるな。二重三重、四重五重も打つべきな

り。敵に顔もあげさせぬことなり」人に一太刀浴びせるのは容易いが、人に斬られないようになるのは容易ではない。人が斬りかかってきて

も、体に当たらない間合いを計っておき、驚くことなく打たせてやればよい。敵は当たると思いかかってくるが当たらず、死太刀を打つことに

なる。そこをすかさずこちらから後の先の太刀を打つのである。一太刀打ったあとは、もはや敵に太刀をふりあげさせないようにする。一度

打ち込んでおいて、もうこれで安心だと気を許せば、敵は必ず打ち返してきて、油断のために負けることになる。打ったという安心の為、先

の太刀をせっかく入れたのが甲斐のないことになってしまう。

一旦打ち込めば、斬れようと斬れまいとかまわず、二度三度、四度五度も打ち込み、敵に顔を上げさせないことであると、宗矩は説くのであ

る。

彼は試合の心得についても、至言を述べている。

「勝たんと一筋に思うも病なり。習いのたけを出さんと一筋に思うも病、かからんと一筋に思うも病なり。病を去らんと一筋に思い固まりたる

も病なり。

何事も心の一筋にとどまりたるを病とするなり。このさまざまの病、皆心にあるなれば、これらの病を去った心を調うる事なり」

これは説明をする必要のないほど、人間の心理をうがった明快な教訓である。宗矩の兵法論は、その内容のすべてにおいて、現代人にも

通じる、明快な心理分析に特徴がある。彼はやはり一介の武弁ではなく、人心の機微を心得た政治家としての器量をも備えていたのである。


津本 陽 「日本剣客列伝」より