宮本武蔵







宮本武蔵は天正十二年(1584年)、美作国吉野郡竹山城下讃甘村宮本で出生した。 彼の家系は播磨の豪族赤松氏の一族、衣笠氏の流

れを汲んでいる。祖父平田将監は剣術と十手術にすぐれ、竹山城主新免貞重に仕えた。 将監は主君に重用され家老となり、新免家の娘

を妻として、城主と姻戚の閑係をむすぴ、新免姓を名乗ることを許されるようになる。 将監の子、武仁も長じて父の名跡を継ぎ、新免家の

家老となる。彼は無二助、無二斎とも号し、父と同様に剣術、十手術の名人で、その修める流派を当理流と称していた。 剛勇をもって知ら

れた武仁は、合戦のたぴに武功をあらわし、新免家随一の武辺者であったが、あるとき足利将軍義昭が彼を京都へ召して、将軍家兵法指

南役の吉岡憲法と試合をさせた。 試合の結果は三本勝負のうち二本を武仁がとって勝利を得る。将軍義昭は武仁の妙技を賞して、日下

無双兵術者の名を許した。

武蔵の生母お政は、彼を産んだ後まもなく病没した。そののち播磨国佐用郡平福村の利神城主・別所林治の娘よし子が武仁の後妻となっ

たため、彼は義母に育てられる。武蔵の幼名は弁之助である。よし子は弁之助をいつくしんで育てるが、彼が幼いうちに武仁と不和となり、

離別して平福村の実家へ戻り、他家へ嫁した。 弁之助は、よし子を慕い平福村へしばしば通った。一時はよし子の嫁ぎ先に寄寓していた

こともあった。讃甘宮本から平福までは鎌坂峠をこえ、二里ほどの道程である。 弁之助は成長するにつれ、体格がなみはずれて逞しくなり

、父から兵法を伝授されて武人としての鍛錬をはじめる。新免家には後世、日本柔術の祖といわれ、竹内流腰の廻小具足打ちの開祖とな

った竹内中務大輔がいて、弁之助は彼の道場で柔の手ほどきをもうける。 だが、母のいない淋しさが、彼をすさんだ行いにかりたてるよう

になる。年齢のはなれた兄姉がいたが、義母よし子を失った心の空隙を埋めてはくれない。 よし子は弁之助の前途を気遣い、彼を平福村

の正蓮庵に預けた。庵主は、よし子の叔父であった。 弁之助は宮本村の実家と正蓮庵をゆききする生活をつづけ、慶長元年(1596年)

十三歳で、最初の他流試合を行うことになる。 

諸国修行の新当流の遣い手、有馬喜兵衛が相手であった。有馬は他流試合の数をかさねつつ廻国をつづけてきた、豪の者であった。 彼

は平福に到着すると、佐用河原に金磨きの高札をたて、何人なりとも望みしだい他流試合に応ずるとの文言を記した。 弁之助は噂を聞い

て手習いの帰りがけに河原へ寄り、高札に墨を塗りつけ、平田弁之助、明朝試合を所望と記して帰った。 正蓮庵の庵主はその日の暮れ

方に、有馬喜兵衛からの位者の訪問をうけて驚愕した。

彼はひたすら使者に詫びた。「なんと申しましても本人は十三歳の子供でございます。ふとしたいたずら心から有馬殿のご高札にさようない

たずらをしたのでごぎりましょうが、なにとぞお見逃し下さりませ」 使者は事情を聞くと庵主を喜兵衛の宿に伴った。 喜兵衛は叔父の陳謝

をひとわたり聞いたのち、答えた。「庵主殿の仰せらるることは、しかとあい分った。

拙者も子供のいたずらに目くじらをたてるつもりはござらぬ。しかし廻国修行の身で、高札に墨を塗られたままでひきさがっては、あらぬ噂を

たてられるやも知れぬ。それゆえともかくも明日約定の刻限に、本人とご貴殿が河原の矢来内へ参られ、見物の群衆に事の次第を申しの

べていただきたいが」 庵主は承知した。 彼は庵にもどると弁之助を呼び、きびしく叱責して、翌朝彼とともに河原へ出向いた。弁之助は脇

差を腰に、縁の下からとりだした長尺の棒を杖について河原へむかった。 黒山の見物人をかきわけ矢来のうちへ入り、庵主が喜兵衛に詫

びをいいかけたとき、弁之助は矢庭に声をかけ、棒をふるって打ちかかった。「喜兵衛とはお前か、尋常に勝負してやらあ」喜兵衛は抜きう

ちに応じ、たちまちすさまじい争闘がはじまる。 十三歳ではあるが大柄で敏捷な弁之助は、練達の武芸者を相手に一歩もひかず打ちあう。

「こりやえらいことじゃが。子供が本気で掛かっていきよるぞ」 見物人たちは熱狂した。 平福村は困州、播磨、但馬、岡山へ通じる街道の

交叉する土地で、他流試合はしばしばおこなわれ、住民ほ兵法を見る限が肥えている。 弁之助は喜兵衛の刃をかいくぐり、棒を投げすて

組みつくと、彼を頭上にさしあげ地面へ叩きつける。喜兵衛が起きあがるまえに、弁之助の杖のめった打ちが彼の頭蓋をみじんに打ちくだ

いた。

弁之助が讃甘の故郷を捨て、廻国修行の旅に出たのは、その三年後、慶長四年(1599年)であった。 当時、父の武仁はすでに竹山城下

にはいない。

弁之助の長兄をともない、九州豊前、豊後の地に流寓していた。 武仁が新免家重職の座を去ったのは、主君の命により家老本位田某を

誅殺したことが原因で家中の反感を買い、城下に居づらくなったためであった。 宮本の屋敷で孤独な月日を送っていた弁之助は、故郷を

出て二度と帰らない旅に出た。出立に際して、彼は屋敷の在所の名をとって宮本武蔵政名と改名する。 

彼はその年、但馬で兵法者秋山某と試合をおこなった。秋山は大力をもって鳴る強豪であったが、武蔵はたなごころを返すほどの一瞬のう

ちに、彼を打ち殺し勝利を得る。 翌慶長五年七月、武蔵は主家新免家の同勢とともに関ケ原の戦に参加した。新免衆は西軍副将の宇喜

多秀家の陣に属し奮戦するが、武運つたなく敗走した。 武蔵は新免衆とともに九州に身をひそめ、徳川方の追求の手をのがれ潜伏の歳

月をすごす。 数年後、彼は播州に戻り、竜野円光寺に滞在して弟子をとり、兵法鍛錬をおこなううち、慶長九年(1604年)二十一歳で京都

に出る。 京都では京流富岡一門の当主清十郎に試合を挑んだ。清十郎は挑戦に応じ、洛外蓮台野で勝負をおこなう。武蔵は「敵をむか

つかする」という、彼独得の作戦をもちいて、試合のまえに清十郎の神経を消耗させた。 武蔵は試合の定刻に大幅に遅れて、蓮台野に到

着したのである。野外で陽に照らされ、焦躁の極に達していた清十郎は、立ちあうまでに疲れきっていたにちがいない。 瞬間の動作に生死

を賭ける剣の勝負では、平常の技量の十分の一をもあらわすことがむずかしいとされている。 死への恐怖感が、どうしても体の自由な動

きを阻むからである。当時の武士が辻斬りを好んでしたのは、殺生を好んだためではない。 真剣勝負の場で、日頃鍛錬した技量を十分に

あらわせるように、度胸を養いたかったためである。 命の遣り取りをする試合のまえに、何時間も待たされれば、そのあいだ不吉な想像に

さいなまれ、五体が萎縮する。そうとう場数を踏み、殺人の経験を重ねた猛者でも、万にひとつ自分の首が胴から離れ、手足が断たれて血

の海のなかに転がる様を思いえがくと、体のカが脱けうせる。 現代のスポーツとしての剣道でも、試合の出番を待つあいだの選手のスト

レスは非常なものである。あまり長いあいだ待たされると、体が思うように動かないのではないかという強迫観念におそわれる。 その結果

、実際に体力が消耗するのである。剣をとっての試合は、徹頭徹尾気力のたたかいといえる。後年、老境にいたった武蔵は、「岩尾の身」と

いうことを、剣の極意としていっている。火に焼かれ巨厳に粉微塵とされても減しない、不動の境地という意である。 武蔵は諸国を流浪し、

試合を重ねるうちに、相手にさまざまの狡猾きわまりない嵌め手を用いられ、苦汁をなめつつ試練をのりこえてきたにちがいない。 吉岡清

十郎と立ちあうときの彼は、辛苦によって練りあげられた、「岩尾の身」となっていたにちがいない。名門の棟梁として、剣技にすぐれていて

も、心を鍛えることのすくなかったであろう清十郎は、武蔵の敵ではなかったわけである。 試合がはじまると清十郎は真剣で斬りかかるが、

武蔵は木刀の一撃であっけなく絶息させる。清十郎は医薬の看護をうけ、蘇生したのち、髪を落して遁世する。 

清十郎の敗北にいきりたったのは、弟の伝七郎であった。大兵で剛力をもって知られていた彼は、名門の誇りを一介の牢人ごときにけがさ

れたと、復讐の試合を武蔵に挑む。 洛外でおこなわれた試合で、伝七郎は五尺余の木刀をもってのぞんだが、このときも試合の時刻に遅

れた武蔵のために木刀を奪いとられ、打ち殺された。 吉岡家の門人たちは師匠兄弟を倒され、武蔵を屠らねば事は納まらないと激昂した

。彼らは清十郎の嫡男又七郎を試合の名目人として、武蔵に決闘を申しこむ。 武蔵は応じた。試合の場所は洛東一乗寺藪の郷下り松で

ある。門弟たち百余人は弓鉄砲をたずさえ、又七郎を擁して早暁に一乗寺下り松にむかった。 彼らは前二回と同様に、武蔵が試合の場に

遅参するものと考え、夜明けまえに現場に到着し、布陣を終えておくつもりでいた。 諸処に伏勢を置き、武蔵が単身でのりこんでくれば、押

しつつんで討ちとる万全の構えをとろうとしたのである。 ところが武蔵は彼らより先きに現場にきており、彼らの動静を闇のなかから見張っ

ていた。 前二回とかわって約束の刻限より早く到着したのは、五輪書にいう「さんかいのかわり」という戦法である。 おなじ技を二度つづけ

てうちだしたあとは、ちがう技で打ちかかるという意と、山といえば海とうけるという当意即妙の進退の、両様の意をそなえている言葉である

。大勢の敵を相手にする場合、彼らの動静を読まねば勝ちを制することができないという判断から、武蔵は前二度とは作戦を変えたのであ

ろう。 彼は決戦にさきだち一乗寺山の中腹で八幡社のまえを通りかかり、神前で勝利を祈ろうと鰐ロの緒に手をのばして思いとどまる。「

神仏を尊んで神仏を頼まず」とする、日頃の信条をつらぬいたのである。 闘争の帰趨はあっけなく決まった。 闇中から不意におどりでた

武蔵は、一刀で又七郎を斬って棄て、門人たちの虚をついて襲いかかり斬りまくる。多数の敵はたちまち崩れたった。 

京都を去った武蔵は、幾度かの試合を重ねた。播州で夢想権之助と立ちあったときは、大太刀で打ちかかってくる彼を揚弓細工の割木で

打ちすえ、難なく勝ちを得る。 奈良へ旅して宝蔵院流槍術の達人、奥蔵院と立ちあったのは、その前後である。奥蔵院の十文字鎌槍は武

蔵の木刀に動きを封じられ、なすところもなく敗れた。

武蔵はさらに伊賀国で鎖鎌の名人、宍戸某と試合をおこなう。宍戸が分銅鎖を投げつけて武蔵の太刀を捲きとろうとすると、武蔵は腰の短

刀を投げ、胸を貫いて倒した。彼は手裏剣術においても入神の域に達していた。 大勢の門弟が師の仇をとろうと襲いかかってきたが、武

蔵はよく凌いでひきあげる。

彼はそののち江戸に出て、柳生新陰流の大瀬戸、辻風という二人の剣客と試合をおこなった。 まず大瀬戸が相手に立った。武蔵は猛進し

てくる彼の機先を制し一撃で打ち倒す。つづいて相手に立った辻風は、疾駆する荒馬の頸に飛びつき、動きをとめるといわれたほどの剛カ

であったが、武蔵に攻めたてられてあおむけに倒れ、縁先の手水鉢で背中を打って失神した。 はなばなしい勝利の閲歴を重ねた武蔵は

播磨にもどり、竜野円光寺を本拠として円明流を創始し、弟子の指導にあたった。 この頃、武蔵は兵道鏡二十八ヶ条を草した。内容はの

ちの兵法三十五ヶ条、五輪書の原型というべきものである。

若年の彼がそのなかで開陳した剣術理論は、体得するのを本義として、不立文字を標榜していた当時の兵法者のうちでは異例といえる、分

析的で明快なものである。 後年の五輪書では、剣術の秘奥を尽した精細な叙述が、そのまま現代剣道に通じることに驚かざるを得ないが、

二十代前半の作とみられる兵道鏡にもおなじ思いを禁じ得ない。 その一例を目付之事という条項にみよう。

「日の付けどころは顔である。心は顔にあらわれるものであるからである。

敵の顔を見る眼つきは、たとえば一里ほどほなれた遠方の島に薄く霞がかかっているのを見るようにする。

その茫洋とした景色のうちから岩や木の姿を見定めるのである。また雪や雨のしきりに降るとき、一町はど先の家の棟に鳥がとまっているのを、

何の烏かと見分けようとつとめるようにする眼つきでもある。静まりかえって眼をつけねばならない。打とうとする面や小手に眼をつけるのはいけない。

脇に首をふるのもいけない。相手の五体のすべてを見ておるようにすべきである。眉間に皺を寄せるようにし、額に皺を寄せてはいけない」

 五輪書にいう、「観の目つよく、見の目弱く」という教示に一致し、説明が微細にわたっている。

武蔵は慶長十年から十六年にわたる歳月を、播州での円明流教授と廻国修行に送った。慶長十七年四月、彼の生涯において吉岡一門と

の戦いと双璧をなす、大試合の機会がめぐってきた。 豊前小倉細川家指南役、佐々木小次郎との一戦である。小次郎は越前富田流、富

田勢源の高弟で、巌流という一派をたてた強豪であった。 彼は岩国錦橋で飛燕を斬って会得したという燕返しの秘技をもって他流試合に

のぞみ、向うところ敵なしといわれていた。 武蔵は尋常の立ちあいでは容易に勝利を得られないと見ると、吉岡清十郎、伝七郎との試合に

際して用い功を奏した「むかつかする」駆けひきにでる。 武蔵と小次郎の試合は関門海峡の舟島でおこなわれることになった。試合の前日

、武蔵は小倉城下に滞在していたが、突然姿をかくした。

さては小次郎の高名に怯え逃げうせたかと、小倉城下に噂がたったが、彼は対岸下関の船問屋に身を移していた。 翌朝、武蔵は朝寝をし

て起きなかった。そのうち小倉から催促の飛脚が舟を乗りつけてくる。小次郎はすで舟島に渡ったというのである。 武蔵はようやく起きて朝

餉を終え、亭主に櫂を持ってこさせ、四尺あまりの木刀を削りあげた。 試合の刻限である辰の刻(午前八時) にはるかに遅れ、巳の刻〔

午前十時)過ぎに、武蔵を乗せた舟は試合の場に到着した。

武蔵は絹袷に紙縒の襷をかけ、そのうえに綿入れを着ている。舟島に到着すると彼は刀を舟にのこし、裾をはしおって素足で海中に下りる

。 備前長光三尺余の剛刀を腰にして待ちくたぴれていた小次郎は、武蔵の遅参をなじったが、 武蔵は黙殺する。小次郎は猛りたち、刀を

抜き鞘を海中に投げ、武蔵の近寄ってくるのをまちかまえた。武蔵はその様をみて足を留め、「小次郎負けたり」と嘲ける。「なにゆえか」と

小次郎が問うと、彼はいう。「勝つなればなにゆえに鞘を捨てようぞ」 当時は試合に際し、決死の覚悟をあらわすために鞘を捨てるのは、め

ずらしいことではなかったが、武蔵に嘲けられて小次郎ほ激昂した。

彼は長時間待たされたいらだちに重ね、はじめて会う武蔵の憎むべき言動に己れを抑えることを忘れ、真向から打ちかかった。       

打とうとみせかけて動きを留め、相手が仕掛けてくるのを待って後の先の技をかける、「懸けて釣り」が、勝利につながる道であることは、兵

法者であれば誰でも心得ているところである。 だが、小次郎は武蔵にむかつかされて、自制心を失っていた。それまで立ちあう相手をこと

ごとく一刀両断してきた自信が、彼を思いあがらせていたのかもしれない。 武蔵も同時に打つ。彼が体得した「五分の見切り」が威力を現し

たのは、そのときであった。彼は敵の剣尖がわが身に当るか当らないかを、五分(1.5センチ)の間合いで見切ることができたのである。

 武蔵の長尺の木刀は小次郎の額を打ち割り、小次郎の太刀先は武蔵の鉢巻の結びめに当り、手拭いはふたつに切れて落ちる。

武蔵は倒れた小次郎をしばらくうかがい、木刀を振り上げふたたび打とうとしたとき、小次郎は倒れたまま刀を横に薙ぐ。 武蔵の袷は膝の

うえに垂れたところを三寸ほど切り裂かれたが、彼の木刀は小次郎の脇腹をしたたかに打ち、小次郎は口鼻から血を流して絶息する。

舟島の試合ののち、武蔵はふたたぴ諸国廻遊の旅にでる。慶長十九年(1614年)大坂冬の陣には西軍浪人勢に参加して戦った。翌年大坂

城落城ののち二十年間は、彼の足跡はたしかではない。 その間に彼は何をしていたか。

 播州姫路十五万石の城主、本多忠政が武蔵を客分として逗留させ、兵法を学び道を聞いた時期に、武蔵は寺院の造庭、城下の縄取など

をおこなったといわれる。姫路にひろくおこなわれていた東軍流三宅軍兵衛との試合も名高い。江戸にも長期間滞在し、神田お玉ヶ池に道

場をもち、門弟を指導していたことがあるという。名古屋にも数年足をとどめ、天下無双の達人として尾張家二代蕃主光友の面前で、試合を

おこなってみせた。

四十歳前後の武蔵は入神の技を身につけていたようで、いかなる相手も立ち会えばまるで勝負にならなかった様子である。

養子宮本造酒之助、伊織との出会いもこの頃のことであろう。

武蔵ははやくから画業に通じていた。狩野元信の弟子海北友松、雲谷派の巨匠長谷川等伯に師事したこともあるといわれ、洗練された技

巧を身につけていた。 彫刻においても非凡の才を発揮し、肥後岩戸山の什宝として残る不動明王像は、名品として聞えている。

彼は茶の湯、連歌、俳諧、軍学にも詳しかった。諸芸なみはずれた才能を示す彼は、五輪書・地の巻にいう。

「万事において私に師匠はない。兵法の理をもってすれば、諸芸諸能もみな一道で通ぜざるものはない」

五十歳をすぎて小笠原忠真の軍監となり豊前小倉藩に身を寄せ、五十七歳で肥後細川忠利の招きで熊本に至り、仕えた。

 武蔵が晩年になってそれまでの自適の生活を捨て、細川家に仕えた理由は二つあるとみられている。

ひとつは武人の身を終える所として、尚武の気風が高い細川家を選ぶに至った。いまひとつは兵法者として剣の道を究めつくした体験から

得た、治国経世の理念を実現させてくれる主君として、細川忠利をえらんだというのである。

武蔵は剣の理念によって政治をおこなう夢を実らせようとするが、主君忠利が五十四歳で急逝したため、落胆する。

五十九歳の武蔵は志を政道にのべる道を失い、一個の兵法者として身を終る無念さをかみしめつつ、門戸を閉ざし隠遁の生活に入り、正

保二年(1645年〕五月十九日世を去った。

武蔵は五輪書、地水火風空の五巻によって、剣の道についてあますところなく述べている。

地の巻では兵法の道を詳述し、さらに二天一流の兵法原理について述べている。

水の巻では、剣技の精細な解説がおこなわれる。太刀の持ちかた、足つかいの仕様、剣の構え、太刀の握りかた、太刀の使いかたが、形

よりも精神面に重点をおいて説かれる。


火の巻は兵法勝負、合戦に及んでの戦法とその心得について説く。

風の巻では、他の兵法とくらべ、二天一流の優れた点をあげている。

空の巻では、兵法の道の行きつくところは空であると結論を見出す。 

五輪書にあらわれている彼の剣術理論は多岐にわたり、詳細をきわめているが、その特徴は体の動き、攻守の技法を具体的に説明するよ

りも、戦う場合の判断力に重点を置くところにある。 彼はいう。

「物事に拍子というものがある。音楽舞踊に拍子は必要だが、とりわけ兵法では拍子を鍛錬して会得しなくてはならない。弓を射ること、鉄砲

乗馬にも皆拍子がある。人の生涯においても栄達するとき、落魄するとき、成功するとき、失敗するとき、すべて拍子によっての浮沈というも

のがある。

商いの道でもおなじことである。分限者となり、それが破産することになるのも拍子であるから、物事の発達し栄える拍子と衰える拍子を見

分けることが肝要である。剣術の拍子ではさまざまある。自分にあう拍子とあわない拍子を心得ておかねばならない。大小遅速の拍子のう

ちから打てる拍子、間合いの拍子、相手の拍子に反する逆の拍子を心得ておかねばならない」 武蔵は勝つためには相手の拍子を読みとり、

その拍子を外す拍子で打ちかけて、敵を混乱させることが大事であると説く。

彼は二天一流、上段、中段、下段、左右の脇構えの五方を基本としていた。

「いずれの構えなりとも、構ゆるとは思わずきることなりと思ゆべし」という。  構えは敵を斬るためのものであるから、そのときどきに有利

なように体勢をととのえればよいというのである。         

他流派にいうように、数多い構えを彼は嫌うのである。構えとは敵につけいられないための守りの姿勢であるため、敵の先手を待つ後手の

形である。 

勝負は常に先手をとって攻め、相手の構えを混乱させ、拍子を乱して足どりの狂った隙につけいるものでなければならない。

そのため、武蔵は「構えあって構えなし」の理論をうちだす。構えは敵を攻める姿勢でなくてはならず、従って敵の出方によって千変万化する

ものでなくてはならない。  また、彼は観見の目付けということを重視した。剣術の目付けの基本は、もちろん相手の眼を見ることであるが

、武蔵は説く。   「遠きところを近く見、近き所を遠く見ること兵法の専也」 遠きところは相手の心の動きであり、近きところとは相手の体

の動き、剣の動きである。

向かい合う敵の体の動きについてゆくと、その拍子にまきこまれ敗北を喫することになる。あくまでも敵の心理を洞察しなければならない。

彼は風の巻にいう。 「目付けは流儀により敵の太刀、手、顔、足と、それぞれことなるところを見るが、そのようにどこをみると決めてしまう

と、かえって迷いをひきだし、兵法の迷いとなるものである。正しい目付けとは敵の心を見るものである」

彼は他流が数多い太刀使いを門人に教えるのは、初心の者をたぷらかし兵法を売りものにする、もっとも忌むべき傾向であると主張する。

人を斬るのにはいくつもの種類があるはずはない。突くか薙ぐかの二種類しかない。早技もとくに必要はない。敵の拍子を逆にとれば、悠々

と打ちこんでも敵は防げない。 真剣試合の場では、小手先の技はすべて通用しない。芸道の伝授にあたって、初伝、中伝、奥伝などと段

階をつけるが、殺し合いの場で、奥伝の技と初伝の技の区別はないというのである。

当時、諸国流派のなかには、形の数が百五十から二百に達するものがあった。そのような形は、ほとんどが敵が死人か藁人形のように動

かない対象でなければ通用しないものであると、武蔵はみていたのである。

彼は空疎な剣術の形式を嫌い、あくまでも実戦に役立つ技を弟子たちに教え、破邪顕正の力を伝えようとしたが、そのため孤高の剣路を歩

まざるをえなくなった。

武術を実際に戦闘で役立てる時代は過ぎ去っていた。剣術は武士の表芸として重宝されるが、すでに教養化していた。

命を賭けての闘いに勝つために考えぬいた武蔵の理論は、凡庸な門人たちに理解できるものではなかった。

兵法の極限を見るために一生をついやした武蔵は、あまりにも高すぎる境地に達したため、世人に理解されることのすくない孤独の道を、

歩まざるを得なかったのである。


津本 陽 「日本剣客列伝」より