塚原ト伝



塚原ト伝は延徳元年(1489)2月、鹿島神宮の神職、吉川左京覚賢の次男として生まれました。

吉川左京覚賢は常陸国鹿島城主の宿老である。ト伝は成長して新右衛門と名乗った。新右衛門は実父と同じく鹿島家の宿老を勤め、塚原

土佐守の養子となっている。

土佐守は天下に名を轟かせた香取神道流の伝承者であり、鹿島の剣は、神功皇后の時代から後、壱岐、対馬をはじめ日本海沿岸の防備

に赴く東国の防人達の武技として、広く伝承されたものであった。吉川家に生を受けた新右衛門は、塚原家の養子となり、日本最高水準に

ある剣士達に剣法の訓育を受けることになったわけである。

鹿島七流といわれる剣法は、新右衛門が出生する前後から、不世出と評される卓抜な神技の持ち主達によって、大飛躍の時を迎えようとし

ていた。新右衛門は、鹿島七流をより優れた名人達によって、幼少時より奥義技を教え込まれる。彼が剣技を磨いた香取神道流道場には

、全国から他流試合を望む修行者が来る。

当時の他流試合は真剣か木刀で行い、形の動きにとどまらず命のやりとりとなるため、敗者は不具になるか命を落すかの、いずれかの不

運を選ばねばならなかった。

新右衛門は、そのような試合の厳しさを充分見聞して育ち、永正二年(1505年)十七歳で廻国修行に出た。 彼は既に香取神道流の門で

は、松本備前守に匹敵する力量を認められており、鹿島の剣を全国に広める郷里の希望を担い、旅に出たのである。 災害、疫病、盗賊、

戦乱の危険を冒しての廻国は、生易しいものではなかった。

新右衛門は神道流剣法のために命を捨てる覚悟をしている。旅を重ね京都へ出た新右衛門は、二十歳の筋骨逞しい若者となっていた。 

彼は室町幕府の管領代、大内義輿の屋敷に逗留するうち、将軍足利義伊の面前で他流試合を行う。 相手は鞍馬流の剣士であったが、真

剣を取っての立ち合いに、死闘を繰り広げたあげく勝ちを得て、名を上げた。 

京都では鞍馬流、義経流、中条流、道鬼流、北条流などの流派が競いあっており、その全てを総称して京流と呼んでいた。京流は何れも戦

場で甲冑を着た武者を討ち取る剣法で、荒削りな野性に満ちたものであったが、相手の動作の虚を突く剣さばきの迅速さにおいては、香取

神道流に遅れをとった。

新右衛門の試合での武者ぶりについては詳述されていないが、当時の彼の神技を推測しうるに足る挿話が残されている。彼は京都に滞在

するうち、近江の名族六角高頼の屋敷へ招かれた。大名屋敷の宴は華やかである。主人夫妻をはじめ、数十人の武士、僧侶が客人として

大広間につどい、酒盛りを楽しんだ。 翌朝辰の刻(午前七時から九時〕になって酒宴は終る。 新右衛門は主人に辞去の挨拶を述べて座

を立ち、玄関へ行こうと屏風の側を通りすぎかけたとき、その陰から突然曲者が現れ、刀を振るい襲いかかってきた。 新右衛門は飛び退

きざまに脇差を抜くなり、相手の脇から胸へ斬り上げる。相手は即死した。面体を改める、京都で新右衛門と木刀の試合を行い敗北した剣

士であった。 新右衛門が三尺あまりの大剣を腰にしていたのに、脇差を用いたのは何故であろうかと傍に居合わせた者が不思議に思い

聞く。 新右衛門は答えた。 「敵があまりに間近におったるゆえ、とっさに脇差を用いました」 不意を襲われても間合いを判断し、脇差を選

ぶ余裕のあった新右衛門は、やはり無双だと褒め讃えられることとなった。

彼の腕力は、並外れて強く、一尺四、五寸の脇差を片手に抜いて持ち、向かい合った人が両手に持った大太刀で力まかせにその棟を打ち

据えても、刀身は微動もしなかったといわれている。 

その後、彼が最初の廻国修行から鹿島へ戻ったのは、、永正15年(1518年)30歳の頃であった。鹿島神宮へ千日の参寵を行い、神の啓

示を受け「一つの太刀」の秘技を覚ったいわれている。

諸国で他流試合を重ね、多数の競争者を血の海に沈めてきた彼は、自らの剣技に一段の発展を願い、神の助けが我が身に下らんことを

祈ったのであろう。

群雄諸国に割拠して互いに覇を争い、下剋上の嵐が吹き荒れ、地方には盗賊が荒れ狂っていた時代に、破邪顕正の剣を完成させようとい

う新右衛門の願望は、切実なものであった。

「一つの太刀」を開眼して後のト伝の剣技の冴えは、さらに凄まじいものとなった。彼は武州川越で下総の住人梶原長門という薙刀の名人と

勝負を行っている。

長門は刃渡り一尺四、五寸の薙刀で、飛んでいる燕を斬り落とす、迅速な技の持主であった。雉、鴨なども餌を漁るところを自由自在に薙

ぎ倒す。飛び立つ瞬間を狙っても、一度も仕損じがない。

他流試合においては、数えきれないほどの相手を、一方的に翻弄して倒す。「こんどは左手を斬るぞ」 と声をかけてかかれば、相手がどれ

ほど斬られまいと防いでも左手を斬られる。「こんどは右手じゃ」 と言えば、言下に右手を斬り落とし、最後に刃先を一閃させ首をはねる様

は、見物人も身の毛のよだつほどの悽愴な情景であった。 新右衛門の弟子達は、梶原長門が試合の相手をなぶり殺しにする現場を見て

、その由を報告し、この度の試合を思い止まらせようと進言した。

「道理を知らぬ者は、仕方のないものじゃ」 新右衛門は笑って諭した。「百舌は己れよりも四、五倍も大柄な鳩を追い廻すほど、気性の激し

い鳥だが、『えっさい』という鳩の半ばにも足らぬ鳥に会うと、木の葉笹陰に隠れ逃れようとする。長門とか申す者は、いまだ己れを越す名人

に逢ったことがないのだろう。儂は常の試合には薙刀を使わぬが、兵法と申すものは、全て同じ理法によっておる。

薙刀は太刀の間合いよりも二尺も三尺も離れた場所にいる敵を斬るのに用いるため、刃がそれだけ長くなければ思うようには使えぬはず

のものである。刃渡り三尺の刀でさえ思うように敵を斬れぬものを、わずか刃渡り一尺四、五寸の刃で、六尺も離れている敵の左右の手を

二度に斬り落とすなどというのは、まったく武術を知らない者を相手にしたからであろう。九尺一丈の槍でわが身を突き抜かれてさえ、手にし

た太刀で相手を打てるものじゃ。小薙刀などで斬られたところで恐れることはない」 新右衛門は二尺八寸余の太刀を帯び、恐れげもなく試

合の場に出向いた。

梶原長門は使い馴れた小薙刀を携えてきた。試合が始まり、互いに腰を上げ歩み寄ったとみる間に、新右衛門は相手の手元に大きく踏み

込み、薙刀を鍔もと一尺ほど残して斬り落とし、長門を一刀に斬り伏せたのである。
また、ある時、新右衛門は上手と噂の高い兵法者に試合を申し込まれた。  彼は弟子たちに、相手がこれまでに勝ちを得た試合では、ど

のような技を使ったかを調べさせた。その結果、構えは左足を前にした左立ちで、勝負になると右か左かの片手技で必ず勝ちを得るという

手の内が判明した。 新右衛門はその報告を聞くと相手方へ使いをやって申し入れる。

「左立ちの片手勝負と申すものは、勝っても卑怯なるゆえ、ご無用になされよ」 相手は当然聞き流す。新右衛門は同じ口上を十度も繰り返

して伝えさせる。相手方からは同じ返事が戻ってきた。

「左立ち片手打ちがお嫌ならば、勝負を致す前に貴殿の敗けといたされよ」 片手打ちの使い手は、斬り合う場合に間合いの伸縮が自在で

、扱いにくいため、相手を慢心させる心理作戦を用いたのである。 新右衛門は試合の場に出るなり相手に告げる。「見ておられるがよかろ

う。拙者の勝ちは疑いなし」 言下に彼の剣は相手の頸から鼻、唇を斬り裂いたのである。

新右衛門の生家、ト部吉川家は始祖雷大臣命(いかずも おおきみの みこと)が鹿島の地に住んで以来、鹿島神宮に奉仕して吉凶を占う

卜部と大行事職を継承してきた。大行事職とは鹿島神領の治安を司る役職であるため、武術を習得する必要があったわけである。新右衛

門は、剣術の他、槍、薙刀、鎖鎌、手裏剣などあらゆる武芸に通じていた。その為いかなる武器を取って立ち向かってくる相手にも、臨機応

変の動きで対処出来たのである。

17歳から30歳までの最初の廻国修行の間に、「真剣の試合19度、戦場の働き37度、一度も不覚をとらず、矢傷六ヶ所以外に傷ひとつ受

けず、立会って敵を討ち取ること二百十二人」 という凄まじいまでの実戦の経験を積んでいた。

彼は帰郷の後、松本備前守の指導を受け、千日参籠を行い「一つの太刀」の秘剣を成したわけであるが、それはどのような剣技であったの

であろうか。関八州古戦録では、次のように説明している。

「およそ一箇の太刀の内、三段の差別あり。第一、一つの位とて天の時なり。第二は一つの太刀とて地の利なり。是にて天地両儀を合比し

、第三、一つの太刀とて人和の巧夫に結要とす。 当道心理の決徳なり」 内容ははなはだ難しく、理解しがたい。  

ト伝在世当時は、剣術の秘奥は全て口伝であり、不立文字として文章に書き記さないのが通例であった。そのため奥義の文字による解釈

は全て後世に至ってなされたものである。

享保十二年(1727年)玉木正英が土佐藩士谷垣守尉に相伝した神道流伝書には、一つの太刀について詳細に記している。

「鹿島の一つの太刀とは、太刀を後ろに引くように持ってもよく、振りかぶってもよい。太刀で体を防ぐことなく、体を敵に向かい無防備の状

態にしておく。隙に誘われた敵が打ってくると、その太刀先が我が身より一寸(三センチ)以上離れておれば見捨て、五分以内に斬り込んで

くれば、こちらから踏み込んで相手を斬る。これを一寸のはずれ、五分のはずれという。 人は太刀先が一寸離れておれば恐怖を抑えるこ

とが出来ても、五分に接近すると反射的に身を引こうとする。その時、反対に踏み込み、密着するつもりで斬る。この技を一つの太刀という

のである」甲陽軍鑑には一つの太刀を次のように説く。

「一つの位、一つの太刀、一つ太刀、かくのごとき太刀一つを三段に見分け候」 つまり、敵の太刀先を五分にはずし、必ず敵を両断できる

間合いから全身の気力を一刀にこめ、天の時、地の利、我が身の技能の三段について見極めて、一撃で敵を倒す集中力を指すもののよう

である。

新右衛門が二度目の廻国修行に出掛けたのは、大永二年(1522年)のようである。彼は千日参籠を終え一つの太刀を開限し、鹿島神宮

に馬流を献じた後、出立した。

この廻国の間、彼は三重県亀山、伊勢の国司北畠具教屋敷、九州太宰府に道場を置き、長期にわたり滞在して弟子を養成した。

伊勢松阪市には「ト伝屋敷」が今もなお残されており、一つの太刀の秘法を伝投された旧時が偲ばれる。

ト伝が兵法試合において、百戦ことごとく勝つことの困難さを、知りつくしていたと思える挿話がある。彼の門弟が、路傍に繋がれている馬の

後を通り抜けようとしたとき、馬が突然跳ねて彼を蹴った。

門弟はとっさに体をかわして馬の蹄を避けたので、その様を見た人々は彼の早業に驚きほめそやした。その評判は、ト伝の耳にも達したが

、彼は聞き流したのみでいっこうに感心する様子をみせない。門弟達は、あのような場合に師匠であればいかなる応対をするであろうかと考

え、ト伝の通る道に、わざと足癖のよくない馬を繋いでおいた。ト伝は通りかかり、路上にたたずむ馬をみると、大廻りをして馬を避けて通り

過ぎた。 その様子を見た門弟達は、馬の蹴りをかわした者の早業をなぜ褒めてやらなかったかと、卜伝に聞く。彼はこともなげに答えた。

 「馬に蹴られて身をかわす技は、なるほど巧者と言えよう。しかし馬は跳ねるものということを忘れ、後を通りすぎたのは粗忽という他はな

い。飛び退くことが出来たのは、僥倖というものである。剣術試合も時によっては下手が上手に勝つことがある。勝ったから旨いとは言えぬ

。馬の足を避けた事も、同じ事で偶然に旨くいっただけじゃ。危難からは避けるのが一番じゃ」 下手な者でも、ものの弾みで勝つ兵法試合

に、不敗を続けた卜伝の実力は、他の武芸者とは比較できない境地に達したものであったのだろう。 彼が老いた後、自らの道統を三人の

子息の誰に伝えさすべきかを決めるため、器量を試してみたことがある。

彼は、居間の入口の暖簾の上に小鞠を乗せ、暖廉をくぐれば落ちるような仕掛けにしておいた上で、まず嫡子彦四郎を呼ぶ。彦四郎は見

越しの術で鞠のあるのに気づき、暖簾をくぐるまえにそれを取って妻戸の脇に置いて座敷に入ってきた。卜伝は同じことを次男源五に試み

る。源五は入ろうとして頭上から鞠が落ちてくると、とっさに腰の刀に手をかけたが、鞠であると気づき、そのまま座敷に入った。三男弥藤太

は、同じ試みに際し、暖簾を開くと同時に落ちてきた鞠を抜き打ちに斬った。

ト伝は、三人の動作を見た上で、長子彦四郎に家督を譲ることに決めたという。この挿話も、兵法者は用心深くあらねばならないという卜伝

の意を表している。

新右衛門が入道して卜伝と称したのは、弘治二年(1556年)三度めの廻国修行にでかける前のようである。彼は四十四、五歳で結婚し、

塚原城主として平穏な日々を送っていたが、十年たらずのうちに妻を先立たせた。前段の挿話では三人の息子があったように語られている

が、実子はなく、三度日の廻国修行へ族立つ前に彦四郎幹重を養子と決めている。この時、卜伝は六十八歳であった。

当時としては稀れな高齢者であったが、鍛えぬいた体躯には、山野の風霜に耐えぬくカがみなぎっていたのであろう。 当時の剣客の体力

は、並の人間とは比較にならないものであったらしい。

香取神道流の始祖飯篠長威斎も六十五歳のとき出京し、将軍足利義故に仕えたという前例がある。卜伝が将軍足利義輝と、後の将軍義

昭に兵法を指南したのはこの最後の廻国の時であった。

武田家甲陽軍鑑に言う。

「塚原ト伝、兵法修行仕るに、大鷹三もすえさせ、のりかえ三疋ひかせ、上下八十人ばかり召しつれありき。兵法修行いたし諸侍大小共に

貴むように仕なす。ト伝杯兵法の名人にて御座侯」卜伝の弟子は、将軍の他、伊勢の国司北畠具教、細川幽斎などの高位の人物が数えき

れないほどであった。

八十人の門弟を引き連れた卜伝は、威風四辺を払いつつ廻国をつづけ十数年を過ごした。 彼が三度の廻国修行に費やした年月は、およ

そ五十年に近いものと考えられる。そのため全国諸地方に卜伝流の目録が残されている。

それらは全て口伝であるため、内容は曖昧で判然としない。口伝は口伝えに相伝するうちに、いつのまにか誤伝となることもある。また、技

の本義を取り違え、流儀の本来の姿を見失うこともある。

ト伝十六代田中武平の弟子中村次太夫が伝えた、卜伝流剣術目録には、足踏、目付、心、気、カ、声、勢、先一之先、後之先、剣之生死、

合離不止、心地不動などの項目がある。

別伝には実戦の心得が列挙されている。そのいつかの例を上げてみる。

極寒: 綿の皮をよくなめし、幅一寸五分にして毛を内にして腕に巻くと極察といえども手の凍ることなし。

極暑: 鉢巻を締め、風を背に受けることが肝要である。細道などに位置して向い風を受ける時は、敵に風を防がせるよう陣取ること。

雪中: 敵を遠く受け、輪にまわせば、敵が動くうちに道を踏み固めてくれるので雪が深くても有利に戦える。

ぬかるみ: 足を静かに踏みさだめよ。両足を同時に踏んではいけない。片足ずつ浮かすようにしなければならない。

溝間: 溝を挟んでの打ち合いには、太刀の届きかねるよう見せかけ、敵の打ちだす模様によって片手技を出す。このような技が数多くある

ので当流では軽い刀を使う。

坂中: 坂を横に敵を受ける。坂狭くして横に向けないときは、坂の上から折身折敷を見せる。敵を坂上に受けた時は、後ろに退きつつ敵を

引き寄せ、虚をついて裾を払う。

卜伝流の口伝には、「途中往来之時諸事心得」と言うのもある。


1、途中にて連れある時は、その人の右になりて行くべし。また行きあう人あるときは、その人を左に通すべきなり。

2、途中にて病犬、または気違い犬等に建う時は、扇または履などを投げかくべし。かならずこれに喰いつくものなり。
3、月夜にて敵と戦うときは敵を月に向わせて、我は月を後にすべし。

4、昼夜にかかわらず、角を曲るときは急に曲るべからず。道の真中を通り、しかと道に出て曲尺の如くすべし。


ト伝が教えた流派の名称は、新当流といい、卜伝流というが、いずれも卜伝の死後に作られたものらしい。卜伝は自らの流儀を当流としか

言わなかったようである。

彼は鹿島七流の代表者をもって任じていたので、新流派を立てる必要がなかったのではないだろうか。

ト伝流剣術目録には、当流の木刀は当りが強く、しばしば折れるため、互いに存分に打ち合うことができない。このため「しゅ」を用いて存分

の打ちを教えると記されている。

「しゅ」は竹を細かく裂き、編んだもので、それを一束にして皮袋で覆った袋撓のことである。このような記録から、打ち込みは非常に激しく実

戦本位のものであったことが想像できる。

剣術目録には、刀の定寸についても述べている。「刀は二尺三寸を定法とす。このうえ人々の分量なり。しかれども二尺五寸より長きは損

多し。直なるも、反り高きもよろしからず。わが分量より少し軽きを用いる伝来なり。変化によりて片手打ちの技あるゆえなり」

卜伝は、普段は二尺四寸の刀を佩びていたが、事に臨んでは三尺の大剣を用いたと言われている。

卜伝は、最後の廻国修行から故郷に帰った元亀二年(1571年)二月十一日、鹿島の東北田野辺の愛弟子松岡兵庫助則方の屋敷で、八

十三歳の生涯を終えた。


津本 陽 「日本剣客列伝」より