仏生寺弥助

幕末期の江戸でもっとも多く弟子を集め、繁栄した剣術流派として、北辰一刀流、神道無念流、鏡新明知流が知られている。いずれも組大刀稽古を減

らし、広大な道場で叩きあう竹刀稽古を重視した新興流派であったが、実力は抜群であった。「位は桃井」「技は千葉」「力は斉藤」といわれて、江戸三大

道場の繁栄は、市人の眼を奪った。

三流派が盛大となる以前の江戸では、直心影流と一刀流の道場のみが栄えて、他流の道場には弟子が集まらず、経営も難しい有様であった。直心影

流が栄えるのは、上泉伊勢守以来の新陰流の伝統を継いでいるからであった。将軍家師範の柳生家は飛騨守宗冬の後は、大名として納まってしまい

、道統を伝えるにたる実力を備えた者が出ていない。 このため、新陰流門下から長沼四郎左衛門が出て、流儀を直心影流と改杯し、組大刀稽古をや

め、竹刀剣法に変えて目覚ましい隆盛をみた。 小野派一刀流からは、二代日中西忠蔵子武が竹刀剣法を採用し、その後四代にわたって繁栄をみて

いた。直心影流、一刀流が江戸を風靡する勢いをみせていたのは、どちらも幕府御用兵法として将軍家の庇護を受けてきた、長い伝統と歴史があるた

めであった。

この二流派は、日本で最も優れていると将軍家の折り紙付きの権威がいつまでも廃れず、全国諸藩の武士が寄せる信頼は揺るぎがなかった。 そのよ

うな時勢に台頭してきた新興の三流派は、当然厳しい淘汰に堪えぬいてきた実力流派である。桃井春蔵、千葉周作、斎藤弥九郎が、旧来の二大流派

に対抗して入門者を集めるためには、さまざまの苦心を重ねている。 彼らは入門者を身分によってわけへだてせず、技量の下手な者をも見捨てなか

った。素質の優れた弟子はもちろん熱心に指導するが、剣術の才に乏しいと見極めをつけた者には、特にていねいに教授するのである。

「力は斎藤」といわれるほど他流試合に強く、荒稽古で知られていた斎藤弥九郎道場も、武士と町人百姓の入門者のわけへだてを、まったくしない、明

るい気風の道場であった。神道無念流は野州都賀都藤原村の郷土、福井平右衛門嘉平がひらいた。彼は初め一円流を学び、後に信州飯綱権現に願

をかけ神助を得て開眼したのである。無念流と称しているが、念阿弥慈恩のひらいた念流とはつながりがない。福井平右衛門は江戸に出て道場を開い

たが、入門者がなく生計をたて難い状態が続いた。門人の戸ヶ崎熊太郎は武州清久村の豪農の倅であったが、師の窮境を見かねて郷里へ師を伴い、

一生を安楽に過ごさせた。

安永七年(1778年)熊太郎は再び江戸に出て麹町二番町に道場を開いた。なんとしても師の流儀を世に広めたいとする彼の熱意は、ある事件をきっか

けに酬われる。

道場を開いて五年後の天明三年(1783年)大橋富吉という百姓出身の弟子が牛込肴町のの行元寺境内で、親の仇二宮丈右衛門を仇討ちした。その際

熊太郎がすべての弟子をひきつれ助太刀したので世間に名が広まったのである。この時の仇討に最もめざましい働きをみせたのが、戸ケ崎道場随一

の強豪といわれた岡田十松吉利である。十松は師匠の郷里に近い砂山村の郷土で、由緒ある旧家の出身であった。十三歳のときから野州都賀郡に

住む戸ヶ崎の弟子松村源六に剣を学んだが、十五歳で江戸に出て戸ケ崎道場に入門した。身の丈六尺、力は二人力といわれていたが、温和な性格で

礼儀をわきまえた美少年であった。入門後三年で目録を許され、二十二歳で免許皆伝を得た。戸ケ崎は他流試合を望む者がたずねてくると、十松を相

手に出す。十松はどのような相手がきても、一度も敗けなかった。彼は三年間師範代を務めた後、神道無念流三世を継いだ。資性温厚で、武芸者のう

ちでもまれにみる人格者であるため、弟子の信頼を集めた。

門下生には大名諸家、旗本の子弟が雲集する。水戸の藤田東湖、伊豆韮山の代官江川太郎左衛門、渡辺崋山らがそのうちにいた。 岡田十松門下

には傑出した人材として、鈴木斧八郎、斎藤弥九郎がいた。鈴木は後年、鈴木派無念流を開き一派を立てたが、斉藤は流派のうちに留まった。斉藤は

岡田が晩年になってからの弟子であった。彼は越中国氷見郡仏生寺村の農家の長男に生れた。父親は信道、通杯を新助という。家系をさかのぼれば

、加賀国富樫の荘の豪族富樫斎藤の血統に連なる名家である。文化七年(1810年)十三歳で高岡の油屋に奉公するが、たまたま藩主前田侯の江戸参

勤の行列を拝した。千人を超す行列が威儀をただし、堂々と声たからかに過ぎてゆくのを見て、弥九郎は男児の一生を郷関に埋めるに忍びない思いに

かられる。彼は無一物のまま出奔し、さまざまの苦難に堪えたあげく、江戸に出ると郷里の縁辺を頼って旗本の家来となり、やがて岡田十松の門に入っ

たのである。 彼は江川、藤田、渡辺らの同門の士と親しく交わり、撃剣稽古をはげむとともに兵学、馬術、西洋砲術を学ぶ。文武にすぐれた斉藤は、

寝食を惜しんで勉励する努力家であった。剣術の進境もまざましく三、四年の修行であまたの先輩を追い抜き、師範代をつとめるまでになった。彼は岡

田十松が文政三年(1820年)卒中で急逝した後、師の道場撃剣館の運営を任された。十松の長男熊五郎利貞が二代目を継いだが、剣の技量は父を凌

ぐほどであるのに、気にいらない弟子には教えない名人気質であるため、道場経営に向かなかったためである。弥九郎は六年間、撃剣館道場の人気

を盛り立てた後、江川らのすすめによって文政九年(1826年)独立し、練兵館道場を開いた。飯田町に建てた道場は 天保九年(1838年)に焼失し、三

番町に移転する。その間、神道無念流総本山といわれる隆盛を続けたのである。練兵館創始の翌年、二代目十松利貞が練兵館に寄寓する。彼は撃

剣館経営をきらい、弟の利章に十松三代目を継がせ、練兵館の食客を希望してきたのである。稀代の名剣士をむかえ、弥九郎は感激して利貞を錬兵

館師匠として遇した。門人達には彼をご隠居先生と呼ばせる。ご隠居先生は当時三十四歳であったが、その後三十数年にわたって練兵舘の人材を育

成することになる。 剣の腕においては、弥九郎が終生十本勝負のうち四本の勝ちを得るのみであったといわれるほどの利貞である。 弥九郎の長男

新太郎、三男歓之助を世上に知らぬ者のない剣豪に仕立てあげた彼は、さらに実力においては天下随一とまでいわれた剣の天才、仏生寺弥助虎正を

も世に出した。仏生寺弥助は、斎藤弥九郎の故郷氷見仏生寺村の百姓弥兵衛の倅であった。十六歳のときに江戸に出て練兵館の下男として住みこん

だ。

彼は暇があれば道場を覗き、稽古の様子を熱心に見ていた。ご隠居先生は弥助に聞く。「お前はいつも道場を覗きに参るが、剣術が好きか」「はい、竹

内の音を聞くと、じつとしておられません。斉藤様を頼って江戸へ出てきたのは、剣術を習いたいためでごぎいます」「なるほど、それなら館主に聞いてみ

てやろう。もし館主がよいと申せば、儂が剣術を教えてやってもよい」ご隠居先生は弥九郎に話を伝え、稽古の許可を得てやった。「許しがでたゆえ、今

から教えてやろう。道具を着けて道場へ参れ」稽古をつけ、剣術の手ほどきをしてやると、弥助の剣の筋はご隠居先生も眼をみはるほどであった。「儂

が撃剣館以来稽古をつけてやった弟子の数は多い。おそらく何千人という数になろうが、その中にこれほど勘のいいやつはいなかったぞ」天才肌のご

隠居先生は、弥助に下男の仕事をやめさせ、昼夜のわかちなく自分の知るかぎりの剣技を教え込んだ。弥助は文盲であったが、ご隠居先生の教えを

細大洩らさず覚えこみ、二年余りのうちに練兵館を代表できるほどの腕前となり、免許皆伝を得た。  ふつう免許を得るのに早い者で七、八年を要す

るものである。弥助の進歩は異数のものであった。年齢はまだ十八歳、弥九郎の長男新太郎二十一歳、三男歓之助は十六歳であった。 弥九郎は日

頃から弥助に勉学をすすめた。「お前ほどの腕があれば、どこの大名家へ指南役に推挙しても立派なものだが、学問がなければ人の師として立っては

いけない。文字を知らない者は、いってみれば半人前だ。これからは学問に身をいれろ」武士となるからには弥助という名だけでは格好がつかないと、

故郷仇生寺村にちなんで仏生寺を姓とすることになった。

彼の剣の手のうちは、日を経るに従っていよいよ冴え、実力は斎藤新太郎、歓之助兄弟を遥かに上回ると噂されるほどになったが、手習いの方はいっ

こうに進歩しない。平仮名さえ満足に覚えられず、せっかく名付けてもらったわが姓名さえ、書けないままであった。「弥助、お前は道場の稽古をほどほ

どにして、ちと読み書きを習え」とご隠居先生さえいうほど、弥助の文字嫌いは極端であった当時、弥助の実力を下回るとされていた斉藤新太郎、歓之

助の手腕は、どれほどであったのか。まず新太郎は弘化四年(1847年)二十歳で、ご隠居先生より奥伝を得て、武者修行の旅に出た。

高弟藤田泰一郎、百合本昇三ら九名を連れて東北を巡遊し、諸方で試合をおこない無敵の戦果をあげる。翌嘉永元年(1848年)の正月は江戸で過ごし

、二月初めに中国、九州への旅に出立した。

長州藩萩城下に到着したのは三月初旬であった。藩道場明倫館は壮大な規模を誇っていた。新太郎たちは、そこで藩士たちを相手に他流試合をおこ

なう。試合はわけもなく全勝した。帰りぎわに百合本昇三が不用意に内心を洩らした。「なるほど道場は立派なものだが、これという遣い手は一人もおら

ぬではないか。これでは金の鳥籠に雀を飼っているようなものだ」玄関まで見送りに出ていた藩士が、百合本の言葉を耳にはさみ、激昂した。「拙者ども

を辱める言葉を吐いた斎藤一行を、そのまま帰してはならぬ。一人のこらず血祭りにあげてしまえ」若侍たちが群れをなして新大郎一行の宿を襲おうと

いう、計画を立てた。老臣たちが引き止めようとするが聞かないめ、新太郎に危急が知らされた。一行はその夜のうちに難を避け、九州へ旅立っていっ

た。

血気の藩士らは新太郎たちの宿を襲ったが、すでに目指す相手はいない。「あいつらを取り逃したうえは、江戸におもむき、錬兵館を叩き潰しやれ」藩

中屈指の遣い手である来島又兵衛、山尾庸三らの暴れ者十四人は、藩庁に旅の届け出を済ませ、ただちに江戸へ急行した。

到着すると旅の疲れを癒す間もなく、三番町練兵館へ向い、他流試合を申し込んだ。三月も末近い穏やかに晴れわたった朝で、弥九郎は伊豆韮山の

江川家へ所用で出かけ不在であった。

長州藩土たちは、明倫館道場にもひけをとらない宏壮な練兵館の、拭き清めた板敷きに坐ると、森厳な雰囲気に気圧されて静粛の態度を取り戻す。道

場正面には香取鹿島の祭神である鏡が、にぶい光を放っている。藩士たちが壁際に居流れると同時に、稽古をしていた二十組ほどの門弟が竹刀を納

め、座に着いた。ご隠居先生は、長州藩土が大挙して試合を求めてきたのは、ただごとではないと見てとった。「歓さんや、今日の試合は珍しく相手が多

いな。弥助に半分手伝わすか」ご隠居先生は、まず大事をとって弥助に試合をさせ、相手の腕のほどを知った上で歓之助と替らせようと考えていた。二

人を出して料理できないほどの敵は、まずいない。歓之助は断った。「私一人で、なんとかやれると思います。弥助は控えさせておいて下さい」歓之助は

道具をつけ、竹刀をとって道場に出た。背丈は五尺七寸もあるが、まだ顔立ちは少年であった。長州藩士たちは、歓之助があまりに年少なので気を抜

かれたが、斎藤家の三男と聞いて闘志を燃やした。歓之助は面と籠手をつけたままで、胴を着けていない。来島又兵衛が聞いた。「ご貴殿はなぜ胴を

着けられぬか。拙者どもは遠慮なく胴をうつぞ」歓之助は落ち着いて答えた。「どうぞご自由になされたい。私は胴を着けずとも、ようござる」痩けにされ

たかと怒気を発した長州勢の先鋒が、歓之助と剣尖を交し、打ちこむ気配をみせると同時に、喉に烈火の突きをくらい、仰向けにひっくり返った。二人

め、三人めの藩士も、動きをあらわす間もなく突き倒される。見る間に十三人が、一本勝負で言い合わせたように突きをくらい、なすところもなく敗れた。

主将の来島は、なんとかして一本を打ち込みたいと用心してかかったが、これも脆くも喉仏の砕けんばかりの突きをくらって床に這わされた。当時の竹

刀は分厚い先革を用い、削って先を尖らせているので、突かれたほうは皮膚が裂け、喉がはれあがる。

この試合で歓之助の剣名は、江戸市中に轟いた。練兵館の鬼歓の突きを遮る者はなく、彼の胴を打てる者はないと、誇大な宣伝をする者が、門弟の間

にいる。歓之助はしだいに慢心した。

一方、長兄新太郎は向うところ敵なく、九州諸国の遊歴を終え、神道無念流の真価を示した。彼が勝利を得た相手の中には、全盛期の大石進と互角に

戦えたという、体捨流の逸材、田中幸助もいた彼らは九州からの帰途、長州藩の使者と出会い、藩主毛利敬親の懇望で、萩城下に迎えられた。神道無

念流の実力を知った長州藩は、新太郎を明倫館道場の師範に迎えることとしたのである。

彼は一年半の歳月を長州で過ごし、藩士の訓育にあたった。弥助は新太郎、歓之助兄弟の陰にいて、地味な存在であったが、試合では負けたことがな

かった。ただ、新太郎と歓之助には簡単に敗けるのである。文字を学ばず、無学であることに変りはなかったが、二十歳で師範代役をつ務めている。た

だ文盲であるため、正式の師範代ではなかった。ご隠居先生は弥助の腕が、新大郎兄弟を上回っていることを、見抜いていた。弥助が二人に敗けるの

は恩人弥九郎の息子に一歩を譲っているのである。暇のあるときは、いつも塾の一室で寝ころんでいる弥助が真価をあらわしたのは、常陸笠間藩の竜

虎といわれる香取神道流の遣い手、小松恒三郎が他流試合を申し込んできたときであった。彼の太刀節はすさまじかった。弥九郎は韮山にゆき、歓之

助も不在で、高弟たちが相手に立つたが、すペて一撃で打ち込まれる。練達者が三歳の児童のように、自由自在に打たれて、反撃の余裕を見出せな

かった。門弟の一人が塾にいる弥助に急を知らせた。

「よし、分った。すぐ行こう」弥助は道場に出向いた。  小松は道具をつけたまま、道場の中央でつぎの相手を待っていた。

弥助は傍へ寄って告げる。「お待たせいたした。ではさっそく十本勝負でお願いいたす」

小松は、弥助を有名な鬼歓であろうと思い、勢いこんで立ちむかう。一本め、弥助は左上段にとった。小松は青眼である。互いに動きを見る間もなく、弥

助は無造作に竹刀を振った。煙の立つような鮮やかな面が決まっていた。二本めも、弥助は同じ構えであった。小松は相上段にとって攻めに出ようと踏

み出したとたん、両眼から青い火花が飛び散るほどしたたかに面をとられた。

三本、四本、五本。続けざまに面をとられる。弥助の動きは変らなかった。小松はさまざまに構え、間合いを変えるが、まったく動きを封じられ、十本とも

面を決められ惨敗した。外出から戻り、途中から弥助の戦いぶりを目にしたご隠居先生は、彼の底知れないカをかいま一見たような気がした。

嘉永四年(1851年)六月初旬。十九歳の歓之助は江戸市中に知らぬ者のない、錬兵館の花形であったが、大事な他流試合で挫折の憂き目を見ること

になった。相手は北辰一刀流千葉周作の次男栄二郎である。千葉の小天狗といわれる栄次郎は歓之助と同い歳であったが、諸大名の屋敷で催される

撃剣試合にしばしば出場して、剣名は高かった。歓之助はいつもの通り、白稽古着黒袴で胴を着けず、試合の場である千葉道場玄武館に臨んだ。栄

次郎は白稽古着、白袴、日月の紋を金で描いた黒胴を着けている。勝負は三本と決まった。歓之助は胴を着けてはいないが、稽古着の下に女の丸帯

を幾重にも巻いていた。一本目は相青眼で対する。互いに隙を窺い間合いを詰めてゆく。面を打とうと剣尖を上げた栄次郎の喉へ、歓之助の矢のよう

な突きが飛んだが、栄次郎は上体を弓なりに反らせて避けながら、猛烈な胴を見舞った。二本目は栄次郎は上段、歓之助は青限にとる。互いに幾度か

打ち込み、道場の広い板敷を騒けまわり応酬を繰り返したあげく、また栄次郎の上段小手が決まった。三本目めも、歓之助は青限の構えである。最後

の一本だけでも突きを決めなければ、面目は丸つぷれになる。必死で戦ったが、栄次郎に小手をとられてしまった。

前日までの矜持を泥にまみれさせてしまった歓助は慢心を捨て、胴を着けてご隠居先生との稽古に励むようになった。

三年後の安政元年(1854年)歓之助は知行二百石で、肥前大村藩の剣術師範役に召抱えられた。二十二歳になった彼の実力は、兄新太郎を凌ぐほど

である。ご隠居先生は肥前へ出立する前に千葉栄次郎と試合をさせたいと望んだが、新太郎が反対した。「今なら歓さんは必ず勝つよ」 「いや、せっか

くの門出の前に万一敗ければ名前に傷がつきますよ」 練兵館では連日歓送の試合、酒宴で気勢を上げ、歓之助の晴れの門出を送った。

大村藩指南役となった歓之助は、藩士を熱心に指導し、めざましい成果を上げた。同藩の一刀流師範であった宮村久馬の次男、柴江運八郎は、門弟

の中でも出色の存在であった。大村藩で一年を過ごし、安政二年になって歓之助は久留米の加藤田平八郎道場で、九州で無敵の名を誇る松崎浪四郎

と対戦した。三本勝負のうち、最初の一本は歓之助が突きを決めて取った。二本目は松崎が小手をとる。三本めは激しい打ちあいになった。歓之助得

意の突きはなかなか決まらず、ついに彼は体当りで松崎を倒し、面をとろうとした。一瞬下から払った松崎の竹刀が歓之助の胴を打ち、窮地に追いつ

められながら危うい勝ちを得た。九州での最初の他流試合の惜敗は、歓之助の前途に暗影を落とした。彼は千葉栄次郎に敗北を喫して以来、大事な

勝負に勝ちを急ぎ、自滅する癖がついていた。九州での二度目の他流試合にも、悪い癖が出た。安政三年(1856年)夏のことで、相手は周防岩国藩士

宇野金太郎、福原範輔である。宇野は中国で並ぶ者のない達人であった。流儀は岩国片山友猪に学んだ片山流であるが、江戸に出て直心影流、北辰

一刀流を修行したこともあった。彼は小手打ちの達人で、相手が打たれて軽いといえば、たちまち第二撃を加え、打たれた者は腕が腫れあがり数日間

もだえ苦しんだといわれている。また打つ前に、面、突き、小手などと呼ばわるが、相手ほ避け得なかったと、山岡鉄舟門下、香川輝の著書にある。

かつて桂小五郎が宇野の道場を訪れたとき、宇野はまず桂に小手をとらせた。「たしかに一本頂戴つかまつった。では私の小手をもご賞味下されい」二

本目は宇野の小手打ちが決まり、桂は腕が痺れて竹刀をとりおとした。彼はそのまま竹刀が持てなくなり、宿に帰って数日は傷みために床を離れること

ができなかったのである。

歓之助は宇野たちの訪問をうけ、まず弟子を相手に立てたが福原は問題にしなかった。歓之助は福原と五本勝負を戦うが、最初と二本目をたて続けに

とられ、残りの三本を辛うじて突きと面で取り、勝利を得た。歓之助の試合ぷりをみていた宇野は、最初から攻撃に出てきた。五本勝負で歓之助は胴二

本と小手を続けざまにとられ、悲惨な敗北を喫した。歓之助は試合が終ると同時に江戸のご隠居先生に手紙を出した。宇野金太郎に雪辱したいため、

弥助を早急に寄越してもらいたいというのである。歓之助は誇りを捨て弥助の援助を請い、どうしても宇野に勝たなければ、大村藩師範の面目が保てな

いのである。弥助は歓之助の願いをご隠居先生から聞かされるなり、肥前へむけて出立した。道を急いだ弥助は半月後に大村城下に到着した。数日

後、彼は歓之助、柴江とともに岩国城下へむかった。宇野金大郎は九州地方の回遊修行を終え、道場に戻っていた。

「先日はわざわざご光来を頂いたにもかかわらず、拙者不調にてお見苦しい試合を致しました故、本日改めて試合を所望致したく、参上つかまつりまし

た」宇野は歓之助の口上を聞くと、薄笑いを浮かべてうなずく。「それは良きお心掛けでござる。拙者は幾度なりとも試合には応じまするほどに」彼は歓

之助の後ろに控えている弥助の存在など、気にしていない。「では、これなる仏生寺弥助がお相手つかまつる。この者は江戸練兵館の助教でござる」歓

之助が引き合わせ、弥助が手をついて挨拶をすると、宇野は上体をそらせ横柄にうなずくのみであった。

弥助は体もさほど大柄ではないし、顔つきも優形である。眼尻の切れあがった宇野の顔には、歓之助師弟を軽視する内心が露骨にあらわれていた。宇

野と弥助は支度をととのえ、道場で向かいあった。「勝負は十本にてお願いつかまつる」「うむ、結構だ」弥助はいきなり放胆な左上段の構えをみせ、宇

野は意外な表情をみせた。上段は、体の守備を放棄した攻め一方の構えであるため、自分よりも熟達者に対してとるべきではない。小癪な奴だ、と宇

野は一気に間合いを詰めようとした。そのとき、稲妻のような打撃が彼の面上を強打していた。歓之助の弟子ごときになぜ打たれたのか、宇野は判らな

かった。彼は混乱し、二本目の勝負をはじめた。小憎らしい相手は悠然と同じ左上段の構えをみせている。宇野は左に回りつつ夢中で小手を打ち込む

。瞬間に、また頭蓋の割れるような強打を浴びた。二本目も敗けた。こんなことがあるものか、なぜだ。宇野は焦った。仏生寺弥助は左上段の構えひと

すじで宇野と竹刀を打ち合うこともなく三勝を得た。

面にくるとわかっている竹刀を、どうしても避けることができなかった。四本目の勝負を宇野は辞退した。完全な敗北を認めたのである。心気動転し、口

もきけないでいる宇野に、歓之助は試合を申し込む。「では拙者との立ちあいをお願い致しまする」「いや今日は調子が悪い。明日にして項きたいが」宇

野は辞退したが、歓之助は許さない。必死の勇をふるいおこした宇野は立ちあったが、歓之助との三木勝負でもみじめな三敗を喫した。

仏生寺弥助の強さがどれほどであったかは、今となっては謎である。無学のまま身を持ち崩し、いがわしい暮しを重ね諸国を放浪していたといわれる。

信州路で桂小五郎と逢ったとき、瘡毒を病んでいた。試合を挑まれると五本勝負をことごとくとり、小五郎を寄せつけなかった。長州浪士隊に加わり、尊

攘浪士として活動するが、粗暴の行動があったとして京都で泥酔しているところを、斉藤新太郎に斬られたとも、その場を逃げて身を隠したともいわれて

いる。剣豪芹沢鴨が、逢えば頭が上がらなかったといわれる稀代の天才、仏生寺弥助の生涯は、文久二年(1862年)三十二歳で消息を断つのである。