近藤 勇




幕末期に京都で尊攘浪士を相手に血刃をふるった新選組の事蹟は、近頃では研究し尽された観がある。隊中の剣士としては、土方歳三、沖田総司、

永倉新八、斎藤一らの武勇談が派手に喧伝されている。ほかにも剣術名誉の腕前を備えていた隊士の数は多かったわけだが、肝腎の局長近藤勇の

手のうちについては、さほど言及することがないのは、何故であろうか。

江戸牛込甲良屋敷の一隅にある、小規模で小汚ない天然理心流の町道場主人として、真剣をとったときは別人のような腕の冴えをみせるが、面小手

の竹刀勝負には弱い男とされている。番町練兵館あたりで竹刀剣術に血道をあげていた連中のうち、維新後政府の顕官となった者たちが、さまざまの

ホラを吹いたために、そのような誤伝が広まったのではあるまいか。

近藤は他流試合を挑む剣客が来訪すれば、番町練兵館に使いを走らせ援けを求める。練兵館の塾生は報に接するや駕籠をとばしてかけつけ、試合

に勝って謝礼の五升樽をせしめるのが常であったというのである。近藤は調布在の農民の出身であった。また天然理心流の系譜は四代にすぎず、初

代内蔵助も遠州の郷士といわれている。多摩農民のいも道場など、江戸市中ではものの数にもいれられていなかったと軽視したい連中の言いふらした

懐旧談が、ホラにすぎなかったことは、近藤の事歴を調べれば自然に判明することである。彼は甲源一刀流の大家比留間利光をはじめ、男谷下総守、

榊原鍵吉、伊庭八郎、佐々木只三郎、松岡万など、江戸で強豪の名を謳われた剣客たちに、一目も二目も置かれた手練の持主であったのが、事実の

ようである。

近藤は老中板倉周防守の推薦で講武所教授方になろうと画策したこともあったようだが、農民の出身が崇って望みをとげることができなかった。だが彼

の手練は、すでに教授方など問題にしないほどの充実をみせていた。そのため新徴組創設に際して清川八郎の勧誘をうけ入隊するや、たちまち隊中で

頭角をあらわしたのである。文久三年(1863年)春、江戸で徴募され京都に向かった新徴組二百三十四人の浪士団は、剣客松平上総介に統率される

が、松平は発足後まもなく浪士頭取の座を去った。乱暴極まる行動をほしいままにする浪士団に辟易したのである。替わって鵜殿長鋭、山岡鉄太郎、

松岡万が浪士取締りの任につくが、彼らも京都到着と同時に清川八郎の策動によって新徴組分裂の失態をまぬかれることができなかった。近藤を中心

とする天然理心流試衛館の一派が、激動する状勢のなかで芹沢鴨ら水戸派浪士と提携し、新徴組から分離して京都に残留し、独自の行動をはじめる

のは、清川らの介入を許さない剣の実力を備えていたからである。

現在残されている新選組の記録のなかで、近藤自身が刀をふるい人を斬った事件は少なく、二度しかない。一度は京都へ出てまもない元治元年(

1864年)正月の深夜であった。

近藤は山南敬助と共に洛中見廻りに出て、豪商鴻池の別邸の前に差し掛かりかった。外囲いの石塀へ沿って歩いていると、見越しの松の下蔭に怪し

い三つの人影がうずくまってしるのを発見する。

山南は北辰一刀流の免許皆伝者であった。当時の剣術諸流派では免許皆伝を得るのに、早い者で七、八年から十年、普通は、十七、八年の修練を要

したといれているから、相当な練達者である。

彼が叫ぷと三人は逃げ去ろうとする。山南は踏み込み、たちまち一人を斬り倒す。賊のうち二人は血迷ったのか抜刀し、近藤に斬りかかってきた。近藤

は一瞬に一人を斬った。その時、山南の勢いこんで斬りつけた剣尖が石垣に当り、切っ先が欠けた。鴻池の主人は気の毒に思い近藤たちを招き入れ

、五、六十振りの刀を差しだして、気にいった一振りを取るようにすすめた。同席した近藤は、傍から刀を見るうち入道虎徹の銘刀を見て惚れこむ。彼

は自分の差料を山南に与え、虎徹を鴻池から貰い受けることになった。近藤が刀をふるった今一度の機会は、有名な池田屋斬込みの際である。このと

き彼は、鴻池から貰い受けた人道虎徹、二尺三寸五分、上出来なれども偽物のよう、といわれた一刀をふるい、奮戦する。元治元年六月四日、近藤ら

は尊攘志士、古高俊太邸を捕縛糾問して、長州人を中心とする西国尊攘派が、京都に騒乱を引き起こそうと画策していること知り、彼らの会合場所の

探索をはじめた。翌五日夜、新撰組三十数人の精鋭はいったん祇園会所に集合し、四つ(午後十時)頃、市中三条縄手から河原町界隈に潜伏する志

士の数は、三百人を超えているといわれており、近藤たちは会津藩兵、桑名、彦根、淀藩兵、所司代下役ら七百余人の応援をたのむが、彼らの出動は

遅れた。そのため、新選組は危険を承知で独自に旅宿改めを始めた。近藤は全員を三隊に分かち、二隊を土方に預けて、志士潜伏の可能性がもっと

も高いと思われる三条縄手の探索に、赴かせる。彼は沖田総司、永倉新八、原田左之助、藤堂平助、谷三十郎、安藤早太郎、新由革左衛門、養子の

近藤周平と、先導投の川島勝司の九人を率い、四条大橋を西へ渡った。

河原町通りの旅籠、茶屋をしらみつぷしに捜索しつつ、北上するのである。彼らは夜が更けてから三条小橋の長州藩定宿、池田屋に達した。池田屋は

それまでに幾度か内部を改めたことがあり、勝手を知っている。八十坪ほどの小さな旅籠で、客座敷は二階に五部屋、階下に二部屋がある。ここで、近

藤たちは思いがけない大敵に遭遇した。二階座敷に攘夷志士の大群が集合していたのである。月が落ち、屋内も戸外も一色の闇に塗り潰された中で、

乱闘が始まった。近藤たちが相手にしたのは、在京の志士たちの中からよりすぐられた屈強の幹部たちであった。彼らの人数がどれほどであったのか

、正確には分らないが、三十人を超えていたと思われる。会議の席上で、新選組壬生屯所を襲撃し隊士らを鏖殺する議を練っていた彼らは、新選組の

宿改めと聞くと、猛然と斬りかかってきた。長州の吉田稔麿、土佐の北添佶摩、望月亀弥太、肥後の松田重助ら、真剣の場数を踏んだ猛者が、先を争

い近藤たちを倒そうと迫った。近藤は沖田、永倉、藤堂ととも屋内で戦い、他の者には表口と裏口を固めさせた。三条縄手の小川亭から三条小橋に近

い四国屋に向かっていた土方たちが、急を聞いて池田屋に掛けつけてきたとき、近藤たちは全滅の危機にさらされていた。

屋内で戦う沖田は刀の切っ先を折り、自らも暑気による脳貧血か、喀血か、打撲傷かの何らかの理由で、戦闘不能の状態に陥っていた。藤堂平助は

鉢金を打ち落とされ、額に一刀を浴び、身動きできないほどの傷を負う。横あいから藤堂を助けた永倉も、左手の親指の付け根に深く斬りこまれ、刀を

折って戦闘力を減殺されていた。裏口を固めていた安藤早太郎、新田革左衛門も深手を負う。

近藤のみが猛烈をきわめる敵の攻撃に、一歩も退かず対抗していた。後年、永倉新八の述懐談にいう。「近藤先生の斬りあっているところは見なかっ

たが、ときどき物凄い気合いが聞こえた。えっ、おうっというかんだかい声が、姿は見えないが我々の腹の底へもぴんぴんひぴいて、百万の味方にも勝

った」

土方たちが来るまでのかなり長い時間、近藤はつねに四、五人の敵に取りかこまれ、斬り結すんでいたようである。池田屋内外で討ちとめた者九人、捕

縛した者二十三人の記録は、近藤たちの凄まじい死闘を裏づけている。戦闘の後、近藤たちはそれぞれの刀の傷みを調べ、研ぎに出すことになった。

近藤とともに、最初に池田屋の屋内で敵の猛攻うけた、沖田、永倉、藤堂の刀は、どのような有様になっていたか。

沖田の刀は、加州金沢在長兵衛藤原清光、刀渡り二尺四寸で、切っ先が折れ刃こぼれが多い。永倉のは播州手柄山氏繁、刃渡り二尺四寸で、おなじ

く刃こぼれ無数、切っ先が折れている。藤堂は総守兼重、出来は上作であるが物打ち刃こぼれ十一ヶ所、ハバキ元大四ヶ所で研ぎ直しは不能である。

三人の剣歴は、沖田が天然理心流免許皆伝者、(土方は同流目録者である)、永倉が神道無念流免許皆伝者、藤堂が北辰一刀流目録者で、いずれも

卓抜な技の持ち主といえる。彼らの刀の傷み具合を見れば、池田屋の屋内で、闇黒の内を駆け走り、多数の敵と死力を尽くして斬り合った様が、想像

できる。だが、不思議なのは、近藤の虎徹がまったく傷ついていないことである。刃こぼれがまったくなかったとは考えられないことだが、特に修復が必

要ない状態であったのは事実らしい。多数の敵に取り囲まれ乱闘を行えば、斬り込んでくる相手の刀身を、棟ではね上げ打ち落としばかりでいられるも

のではなかろう。刃で受け、鎬で受け、刃筋を立てる余裕もなく打ち込んで、刃こぼれをつくり、刀身を曲げ、折るのが普通ではないか。

寺田屋騒動で示現流の遣い手たちが狭い狭い土間で斬り合ったときも、刃こぼれが青い稲妻のように闇に走っていたと、目撃者の田中河内介が記して

いる。池田屋に斬り込んだ近藤たちは、鎖帷子、鎖頭巾、を着けていたようだ。志士達は単衣に袴をつけた素肌に近いいでたちである鎖装束を着込ん

ででおれば、暫撃や刺突にはある程度の抵抗力を持つ。巻鎖という一重のものは軽量であるが、防御力は弱い。鎖を三重にかさねた螺細鎖、さらに八

重鎖などは頑丈であるが、重量が増える。

近藤たちがどのような鎖装束を着ていたかは不明であるが、四キログラムから六キログラムの重量のものを身に着けていたことは、確かである。それ

だけの重みの物を身に着けておれば、体の各部分に紐でしばりつけておかねばならず、素肌に単衣を着けただけの敵にくらべると動作が、はるかに鈍

重にならざるをえない。動きが鈍れば危険は増す。鎖装束が敵の刃で断たれなくても、刀身によって殴りつけられれば骨が折れる。ふつう刀を振り下ろ

す速度は、八十分の一秒といわれる。そのような速さでまともに斬りつけられれば、皮膚は鎖で保護されていても、内蔵や骨は潰れざるを得ない。近藤

は大勢の敵にとりまかれ、不利な状況のもと死力をふりしぼって戦いつつ、なぜ刀身に傷を受けなかったのであろうか。刀身に傷な受けないためには、

敵から打ちこんでくる刀を、左右に切り落とすほかにはない。切り落としは、敵の刃を左右に身をひらいて避けつつ、斬る技である。つまり、敵とは打ち

あわずに体をかわしつつ斬る、抜け技である。この技は、受ける者の技術が斬りこんでくる者の技術より、はるかに優れていなけれげ通用しない。なぜ

ならば、敵が打ち込んでくる動きを見て、その動作に合わせて打つという、タイミングのずれを活かす後の先の攻撃を仕掛けねばならないからである。

相手がどこに斬りかかってくるかを見届けたうえで、身をかわしながら斬り落とせば、相手は既に動きに出ているため、防御することができず、脆くも斬

られることになる。

この技をかけられた敵には防ぐ手段はなく、ただ斬られるより他はないのである。面を打つために踏み切った足を途中で止めることができないからであ

る。

池田屋における近藤の場合は、切り落とさねばならない相手の打ち込んでくる太刀は袈裟掛けであったり、逆袈裟であったり、小手から面の二段打ち、

突きから横一文斬り、左右横面と、荒れ狂い襲ってくるものであったであろう。しかも敵は複数であった。彼らに対し、各種の切り落とし技を駆使し、左右

に切り落とすのは、ほとんど信じられないほどの神技である。

抜き胴、抜き面、抜き小手、などさまざまの抜け技を闇黒の中で近藤が使い分けたとすれば、言語に絶する妙技を身につけた達人ということになる。

近藤が虎徹に刃こぼれを生じさせないためのもう一つの条件として、刃筋を狂わせないことも必要であった。刀を使って人を斬るには、刃筋を立てなけ

ればならないのである。刃筋を立てるとは、刀の刃先で空中に円形線を描き、引き斬りに敵を斬ることをいう。刃筋が狂えば、皮膚にかすり傷をつける

のみで、斬り込めない場合がある。

竹刀剣道では、刃筋のことをまったく考慮に入れないでも、小手、面、胴を打ちさえすれば勝てるが、実戦では刃筋を立てなければ敵を斬ることは不可

能となる。

近藤は必死の斬り合いに際して、刃筋を狂わすことなく、手のうちを締めて正確な円形線を描き敵を斬っていたのである。池田屋に先頭に立って踏み込

み、全滅寸前に追い込まれるほどの苦戦を強いられ、大勢の敵と斬り合っていたという、その夜の証言もある。

これらのことを考え合わせると、近藤こそ新撰組随一の剣豪であらねばならないことになってくる。

土方の策略が新選組の足並みを統御し、強大化させたという面はあったが、入隊を希望してくる浪士たちは、近藤の威望を慕っていたのに違いない。

彼の剣による統率力は大きなものであったのではなかろうか。