男谷信友

男谷精一郎信友は、寛政十年(1789年)幕臣男谷新次郎信連の嫡男として生れたが、二十歳のとき同族の男谷彦四郎忠果の二女の養子にむかえら

れた。

養父彦四郎は江戸で有名な金貸しで七十万両の巨富を築き、からす金検校の異名をとった男谷検校の孫である。 信友は十五歳のとき、四谷の平山

行蔵子龍の門に入り、忠孝真貫流という野太刀の流派を学んだ。 流祖は上泉伊勢守の弟子、丸目蔵人佐に師事し、心貫流をひらいた奥山左衛門太

夫である。忠孝真貫流の勢法目録は九条につきる簡単なものであったが、その道場「兵原草廬」は地獄稽古で名高かった。

平山行蔵の剣談には、独得の見識があらわれていた。「剣術の要諦は、敵を打つ一念をまっしぐらに敵の心に貫通さすことにある。すなわち必死三昧

である。よく戦う者は人に致して人に致されることはない。致すのは主で、致されるのは客である」 敵の打ちこんでくるのを受けたり流したりする稽古は

、人に致されるものである。

このような稽古をいくら積んだところで、うけ流しの名手となるばかりで敵を制する呼吸はつかめない。 大軍勢にうちまじっての合戦に際し、外すとか受

けるとかの小技は通用しない。ただ精一無雑に餓えたる鷹のごとく、怒れる虎のごとく、疑惧の念なく突撃して、ようやく妙境自在に達することができると

するのである。 受けて切り返し、流して打ちこむなど剣の順序をたてれば、自分より巧者には敗け、下手な者には勝ち、同等の者とは相討ちなどという

、自らの力量を限定する目安ができてしまう。そのようなことでは一生をかけ工夫しても敵に超越する心境を得ることができないと、彼は説く。 「禅堂に

入り心胆を練り、読書して理をあきらかにしたところで、空識にすぎない。実地にあたり白刃下に身を挺すると、意気ごみはたちまちおとろえてしまう。当

流では、敵にあたって勝ちを求める念を持たず、敵の刀刃をまえにして精神がくじけないよう、心胆をかためさせるのを、鍛錬の目的とするものである」

そうとう独断と偏見の目立つ意見ではあるが、武人は精神を鍛えねばならないという、重要な真理をついている。

彼は幕府普請方に一時勤仕したが、思うところがあって職を辞し、その後武芸十八般をことごとく習い、礼楽刑政、農桑水利にいたるまで研究した。

七十歳で没するまでに著書数百巻をあらわし、和漢蔵書千八十余部、城塞器械図四百二部を集めていたという。彼は平生読書をしつつ、槻の木の板

二尺四方のものに拳を突きあてる習慣があり、そのため石のように固まった拳で胸板ぐらいは楽に突き砕けるといっていた。 寒中にも水風呂を浴び、

寝るに布団を用いない。毎朝七尺の棒を五百回振り、居合太刀を抜くこと二、三百回という荒行をつづけていた。 男谷信友が兵原草慮に通ったのは、

一年のみじかい期間であったが、感じやすい少年の心に平山行蔵の燃えるような気迫は、濃い影を落としたにちがいない。

平山行蔵は、信友が十六歳になった文化十年(1813年)、北辺防衛の建白書を幕府に提出するが、その内容が過激であったため咎めをうけ、兵原草

廬を閉鎖せざるを得なくなった。

信友は平山の紹介で、本所亀沢町に道場をもつ直心影流、団野真帆斎の弟子となった。団野は肝のすわった男で、弟子を養成するのにえこひいきが

なく、長所をよく見て伸ばす教授法が巧みであった。 武芸者のなかには、腕が立っても人格の円満な人物はなかなかいないものである。酒色の供応を

うけ、金品を提供してくれる弟子にはひいきをするが、才にめぐまれていても己れにとりいろうとしない弟子につらく当る師匠はめずらしくない。 良師に

めぐまれた信友は、十九歳のときにははやくも真帆斎を凌ぐ腕前となった。 時代は文化文政の太平期にあったが、ロシヤ、イギリスなど外国船の来航

がしきりであった。外夷に対する警戒の念もようやく生じ、大砲台場築造、武術稽古の機運もさかんになろうとしていた。

徳川初期、戦国の遺風が濃く残った寛永の頃までは、武芸は隆盛をきわめていたが、元禄、享保から後は衰運の一途をたどっていた。太刀打ちの技

は武士の表芸であるにもかかわらず、道場での稽古は派手な立ちまわりに終始する華法剣法のみ栄え、一朝有事に役立つ真の太刀技はうとまれてき

た。   その原因は、世禄の高低にあった。

幕府は文官を重く用い、武官を小禄にとどめた。将軍家剣術指南役の柳生家の世禄は一万石を超えたが、大禄を得たのは剣によってではなく、大目付

としての才腕にあった。おなじく将軍家指南役でも剣術の才のみで仕えた小野は、三百石の小緑に甘んじていた。このような幕府の人材処遇の方針は

、自然に諸藩にも影響を与えた。学をもって立つ家来は、才能さえあれば侍講、参政と栄達の道はひらかれている。だが、剣によって立つ者は、体力お

とろえた老境になれば、自然に習いおばえた技があらわせなくなる。

文学をこころえた者が、老いてますます主君に重用され、剣術者はひたすら勢い衰弱するのみである。 学んでも何の利も得られない剣術の工夫稽古

をする者は、酔興者とみられがちであったが、ようやく天保期に至って武芸重視の方針がうちだされた。 

天保十二年(1841年)十一代将軍家斉が薨じ、閣老水野忠邦が十二代将軍家慶の執政となると、天保の改革が断行された。

彼は従来の異国船打払い令を緩和する一方で、武士のあいだに砲術剣槍の武技の練磨を奨励し、全国の武芸者は奮起した。

嘉永六年(1853年)異国船のあいつぐ来航の情勢を憂慮した幕府は、諸藩の意見を徴した。 求めに応じ水戸烈公斉昭は、上書建白してつぎのように

述べた。

「槍剣手詰めの勝負は神国の長ずるところに候間、御旗本御家人はもちろん、諸一統試合実用の槍剣ことごとく練磨いたし侯儀、これありたきこと」 た

とえ夷人がいったんは近海の地に進攻してきても、上陸しなければわが国を侵掠できない。敵が上陸してくれば、わが勇壮の士卒が槍剣の隊をかまえ

、電光石火に血戦すれば、夷賊を皆殺しにすることはたやすい。

「されば神国に武士たらん者は、第一に槍剣の二技を練磨せずんば、あるべからず」 男谷信友はこのような時流に棹さし、直心影流の門の偉材として

、世に傑出したのである。

信友は、はじめ麻布に道場をひらいたが、のちに師匠団野真帆斎の亀沢町の道場を譲りうけ、子弟を教導した。彼は時勢を読む明敏な頭脳の持主で

あった。旧師平山行蔵の影響をうけ、外夷の侵攻を防ぐべく建白を、しばしば要路に奉った。彼は剣術修練の場でも新機軸をうちだす。直心影流が他

流試合を厳禁しているのは、戦国旧時の形態を脱していないとして、他流試合をおおいに奨励したのである。真剣あるいは木戟をもって命のやりとりを

する戦国の昔の他流試合であれば、のちに遺恨を残さないため、これを禁ずるのも意味のあることである。

だが現今、道場で竹刀をとっての他流者との試合を厳禁する理由はないというのである。自流派の内にのみとじこもっておれば、他流の太刀筋を知るこ

ともなく、定まった相手とのみ技を競い合うために、抜群の名人を出すことができない。 他流と渡り合えば、相手の長をとってわが短を補うことができる

というのが、信友の持論であった。 彼は若年の頃から他流試合にすすんで出かけ、腕をみがいた。男谷道場をたずねてくる諸国の剣士、浪人が試合

を所望すれば、信友はただちに応じた。 他の道場であれば、他流の者が試合にくれば、助教、師範代を相手に出し、腕前のほどをたしかめる。そのう

えで、立ち会っても敗北することはあるまいと、手のうちの見極めをつけたうえで、道場主が試合に応じるのが、通例であった。

信友は日頃から流儀の名を名乗ることさえも好まなかったと、いわれている。剣は剣術、鎗は槍術でこと足りるというのである。自流に固執すれは芸も

進境をみせないというのが、彼の持論であった。

天保四年(1833年)筑後柳河藩剣術、槍術指南役、大石進種次という神陰流の使い手が、江戸勤番を命ぜられて出府し、江戸中の高名な道場に出向

いて主人に他流試合を挑み、小手調べをはじめた。 大石は日本一の腕と世評のたかい男谷信友に試合を申し込むつもりであったが、そのまえに当時

江戸で名を知られた剣客の手練のほどを知っておきたかったのである。

彼は身長七尺、物干竿といわれた五尺三寸の長竹刀を提げている。竹刀の先端に鈴を仕込み、狙いが狂わない仕掛けをしてあったというが、それを操

っての試合で江戸の錚々たる剣客を片端からうち負かした。 心形刀流伊庭軍兵衛。北辰一刀流千葉周作、庄司弁吉。神道無念流木村定次郎、秋山

要助、斉藤弥九郎。鏡心明智流桃井春蔵、上田右馬之允。甲源二刀流比留間半造。

いずれをとっても、まず当時の最高峰といえる実力者たちであったが、大石進の長竹刀に屈服したので、江戸の剣術界は震撼した。 大石は生れつき

左利きであるため、左片手突きという独得の技を身につけている。その技で九州諸藩を席捲し、久留米藩では四十人抜きという記録をたてた経歴の持

主であった。 千葉周作は、彼の突きをくらってあおむけに転倒した。斎藤弥九郎は道場の隅に追い詰められ、なすところもなく敗れた。 彼に挑まれて

、勝ちを得たのは小野派一刀流の高柳又四郎のみであった。高柳は音無しの勝負で世に知られていた。

彼は日本橋浜町の小野派一刀流、中西忠兵衛道場の後見役であった。中西道場には大名旗本の子弟が入門し、稽古日には供奴のかつぐ槍が二百

本も道場の前に立っていたといわれる、隆盛ぶりであった。 高柳は相手が打ちこんできても竹刀で受けも払いもせず、切りおとして勝ちを得るおそろし

い技量の持ち主であった。竹刀で打ちあう音をたてないわけである。 彼は自らの剣を錬磨することにのみ執心し、後進を指導する気のない天才肌の

男であるため、自分の道場を持とうとはしない。稽古は峻烈をきわめ、弟子につこうとする者もいなかったが、強さは誰しも認めないわけにはいかなかっ

た。

大石は名だたる剣客を連破し、意気ごみすさまじく高柳に試合を申しいれてきた。彼はまだ立ちあっていない男谷信友、男谷の弟子島田虎之助らと肩

を並べる強豪高柳を破るつもりでいる。

試合は信友の高弟横川七郎の、八丁堀の道場でおこなわれることとなった。 検分役には信友をはじこめ横川七郎、桃井春蔵、斎藤弥九郎、寺田五郎

右衛門ら、一流の剣士二十数人が列座した。

大石ははやくから試合の場に到着していたが、高柳は試合の刻限が過ぎる頃、姿をあらわす。 彼はたずさえてきた風呂敷包みを解き、中から径一尺

二、三寸はあろうと思われる牛皮の鍔をとりだし、それを定寸である三尺三寸の竹刀にはめ、立ちあおうとした。そのような鍔を使われては、大石の突

きは通じない。高柳は皮肉な笑みを浮かべていってのけた。

「鉄砲などの器械に刀槍で立ちむかうのは、長篠合戦以来禁物となっておる。また寛文十年の公儀諭告によって、武士は大剣は二尺八寸九分、小刀一

尺八寸よりうえのものを帯びるのは禁制のはずじゃ。たとえ禁制がなくとも、五尺三寸の真剣など使いこなせるわけもない。役に立たぬ長竹刀を使うの

は、見世物剣術、香具師のたぐいじゃ。つまり長竹刀は器械に過ぎぬ。器械に対するに器械をもってするのは、大石氏への礼儀というものでござろうよ」

大石は冷笑され、さすがに長竹刀をすて、高柳とおなじ定寸の竹刀をとり、素面素小手の勝負を挑んだ。

高柳は平青眼、大石は中段でむかいあったが、両者はそのまま小半刻(三十分)あまり動かなかった。 勝負は大石のほうから仕掛けた。中段から下

段に剣尖をさげ、一気に突進する諸手突きを高柳は切りかえし、胴に一本をみまった。 二本めは双方仕掛けることができず、引き分けと決った。結局

、高柳が胴をとって一本勝ちで勝利を得たが、彼はかぶりをふった。「いまのは儂の勝ちとはいえないよ。竹刀が音をたてたからな」 さすがの高柳も、

突いてきた竹刀を払わずにはいられなかったのだから、大石の腕は長竹刀を使わないでも、非凡の冴えを見せたわけである。

大石は高柳との試合のあと、伝手を介し信友に挑戦した。信友は即座に快諾し、定寸の竹刀で大石の長竹刀と立ちあった。 信友は温厚の君士で、他

流試合をおこなう場合、どのような相手にも一本は勝ちを譲るといわれていた。だが、大石の必殺の突きは信友の喉には決らない。信友が頭を左右に

ふるだけで、剣尖ははずされてしまうのである。大石はなすところなく敗れ、いったん宿に帰り一晩考えたあげく、翌日再び信友と立ちあう。 今度は大

石の突きは見事に決った。彼は突きの狙いどころを、前日より一寸ほど下げたのである。「よいところに気づかれた」 信友は大石の力量を認め、旗本

や諸藩士に彼のもとへの入門を斡旋してやった。信友は試合をおこたった相手に才能があるとみれば、ただちに公辺、諸侯に維挙してひきたてようとし

た。

千葉周作もその一人といわれている。彼は市井で無敵の達人と評判をとっていたが、信友と一両度試合をおこない、段違いの腕前を知らされた。 信

友は千葉を評していった。「千葉殿もあれだけお使いになられるまでには、ずいぷんと粉骨砕身して修行いたされたことでしょう」 後に千葉が水戸烈公

に招かれたのは、信友の推挙によるものであった。 男谷信友の強さは、どれほどのものであったのだろうか。外見は小太りの温和な人物で、酒を好ん

だが、どんなに酩酊しても我を忘れることはなかったといわれている。 妻子、家来を高声に叱ったことは一度もなく、毎朝暗い内に起きると、箒と塵払

いをもって座敷を掃除するのが習慣であった。 そのあと、矢場で弓射をこころみ、雨天のときは読書をして朝餉までの時をすごすのが常である。

欄間には諸葛常武侯の肖像をかけ、日頃から孔明、楠公の万世不朽の英智を慕っていた。弘化二年(1845年)四十八歳で糟糠の妻を失ったのちは、

後添いを娶らず、下男清助に家事を委ねて過した。 信友の才能が幕閣知られたのは、天保の改革をおこなった水野越前守の推挽によるものである。

水野は役宅に幕臣のうちから選んだ剣士たちを招き、試合をさせては人材を抜擢したが、信友は当る者ことごとくを破り不敗を堅持したので、水野は彼

を小十人組百俵取りから御徒頭千石に昇進させた。 信友はその後、武事について要路よりしばしは下問をうけ、幕臣の武術習練を励行するための方

策を練り、建白書を提出した。

彼の意向は老中阿部正弘の容れるところとなり、安改元年(1854年)五月、越中島砲術調練所などが設置され、翌二年二月、講武所が開設された。 

信友は頭取、教授方を命ぜられ、文久二年(1862年)には下総守に任官し、御旗奉行、西丸御留守居と累進して、俸禄は三千石となった。 当時江戸

市中で道場を構え、講武所教授方となり、諸侯師範役となった信友の弟子は二十余人を数えたといわれている。島田虎之助、本目鑓次郎、榊原鍵吉な

ど強豪が揃っていたが、師匠の信友は生涯人を斬ったことがなかった。

豊前中津藩、奥平十万石の家中の士、島田虎之助は、性来粗暴で酒癖がわるかった。彼は一刀流を学び、十八歳のとき九州一円の武者修行の旅に

出て、無敵の名を得た。天保五年(1834年)二十一歳で江戸にのぼったが、酒と女に身をもちくずし、性病を得て郷里に戻った。 天保九年、二十五歳

になってふたたぴ江戸に出た。

真剣勝負の場数をも踏んだ荒武者の虎之助は、市中の町道場こ他流試合を申しこんでは片端から破り、日本一の剣豪と噂される信友に、臆面もなく試

合を申し込む。信友は快諾して立ちあい、三本

勝負で一本先取りし、二本めを島田にとらせ、三本め自分がとった。島田は敗けはしたが、一本をとったので内心で信友を軽んじた。もしかすると自分

の腕は江戸でも超一流として、通用するものかも知れないと慢心し、つぎに下谷車坂の井上伝兵衛の道場へおもむいた。井上は直心影流十代、森川

弥司郎右衛門の門下で錚々の名手である。五十路こえ、円熟の境地にある井上は、三本勝負で楽々と三本とも取ってしまう。 恐れ入った島田は手を

ついて頼んだ。「先生の技の冴えには恐れ入りました。なにとぞ門弟の列にお加え下さい」 井上は笑って答えた。

「広い江戸には、儂ぐらいの力量の者は掃いて捨てるほどいる。師につくのなら本所の男谷先生が一番だ」島田は男谷と聞いて気落ちしたが、井上の

添え状をもって男谷道場をふたたぴおとずれる。

再度の試合を挑んでみると、信友の気合はまるでちがう。 限前に鉄壁が立っているかのようで、進むことも退くこともできない。動けば打たれると焦る

はかりで、島田は全身に汗を噴き出させ、ついにその場に膝を折り、入門を懇請したのである。 信友は晩年には刀剣を愛蔵し、つれづれをなぐさめる

余技として、山水花鳥を紙吊にえがき、書を楽しんだ。はげしい剣の手腕とはうらはらの静かな日々であった。 彼は勝海舟とは親戚の間柄である。勝

の父小吉は男谷検校を祖先にもつ者であった。 男谷検校は、越後小千谷の在に生れた。眼の不自由な彼は、十七、八歳のとき身をたてようと江戸に

出る。 腰に青銭三百文をつけているのが唯一の頼りであったが、大雪の夜に幕府奥医師石坂宗哲の門前で行き倒れとなった。宗哲はこれをあわれ

み、数日のあいだ供部屋で過ごさせる。

当時、幕臣の供部屋は町方の探索の手がのびないため、賭博がさかんにおこなわれていた。 石坂屋敷でも賭場がひらかれていたが、行き倒れの青

年は勝負をあらそう無頼どもに資金を貸し、数日のうちに利息をおびただしく得て、三百文を一両二分にふやした。 宗哲は彼の商才に感心し、さらに

一両二分を与え、江戸で生業をたてるよう諭した。行き倒れの青年は後に江戸有数の金貸しとして七十万両を所有する、男谷検絞となったわけである。

信友、勝海舟のいずれにも、男谷検校の先見力、忍耐力、研究心が遺伝していたようである。

海舟ははじめ島田虎之助に剣術を学んだが、講武所頭取の信友は彼をいましめていった。「こののち、国家になすところあらんと思うならば、剣術など

に精だしていてはいけない。それよりも蘭学を修め、航海の術を会得し、西洋の新機軸にあきらかにならねばいけない」 当時の剣術者の最高峰を占

める者がいう言葉としては、達識であるといわざるをえないが、いささかの気味わるささえ感じる。

本心ではなにを考えていたのであろうか。 勝はこの一言によって武技を捨て洋学を志したといっているが、彼はその後の波瀾をのりきるうえで、自分を

支えてくれたのは、剣の修練によって得た度胸であるとも述懐している。 信友はおそらく、立ちあってみれば奥底のわからない強みを発揮する剣士で

あったのだろうと思う。

剣の遣い手には激しく動くタイプと、深山のように静まりかえっているタイプがある。静かでありながら、懐がふかく立ち入ることのできない達人と竹刀を

交えれば、身がすくみ、どのように打ちこめばいいのか迷ってしまうのである。 真綿でくるみこまれたように、攻められるわけでもないのに、竹刀を交え

ているだけで圧迫感を覚える。

「直心影の薪割り稽古」といわれるように、同流の打ちこみは激しく、面金が曲がることもあったといわれている。 小手を打たれれば腫れあがり、疼きで

夜も眠れず、突きをくらえば喉がつぷれたという。喉がつぷれるとは、どんな具合になったのか分らないが、明治時代まで生き残った直心影流の剣客の

なかには、若い時分に突きをくらったため、咳ばらいのような気合しかかけられない人が多かったといわれている。 そのような老剣客の稽古は、たがい

の間合いを詰め、ゆっくりと竹刀を振るのだが、真剣勝負を限のあたりにするような凄みが、たしかな打ちこみの勢いにあらわれていたそうである。信友

の生涯を通じて、人目に立つ挿話というものは少ない。幕府要職について公務にあたることが多く、民間にその名を知られることが少なかったためであ

ろう。 ひたすら敵を倒すことにのみ専念した戦国期の兵法者、たとえば若い頃の宮本武蔵と信友を立ちあわせてみれば、どのような結果がでたか。

真剣をひっさげての勝負に信友は積極的にたち向かったであろうか。彼のよう人生を達観した人物は、案外剣の道からはずれ、僧侶にでもなっていた

かもしれないと、さまざまに想像して興味はつきない。 元治元年(1864年)六十七歳で世を去るまで、信友は恭謙を重んじる生活をつづけてきた。 信

友の謹直な性格を裏書きする話がある。 彼の姪が江戸城本丸の大奥につとめていたが、美人の聞えがたかく、将軍の御中臈にえらばれることとなり

、将軍がお透き見をして気にいった。「あれは誰の娘か」 部屋頭の女中が、とっさに答えた。「男谷下総守殿のご息女でございます」

将軍は信友の名をよく知っていた。「男谷の娘なら、いうことはあるまい」 さっそく、早々に差し上げるペしという上意が、親元に下った。 親は娘の幸運

をよろこんだ。娘が将軍家の側室となれば、望外の栄達が一家におとずれることになる。父親はただちに兄信友のもとへかけつけ、娘の仮親となっても

らいたいと頼んだ。だが信友は頼みを峻拒した。「儂は三十年来、武芸によって弟子を教導してきた。剣の道を通じいささか武士道をも存じておる者じゃ

。さような頼みは武士道にもとるゆえ、受け入れることができぬ」 信友は娘の縁によって自らの立身をはかろうとする、弟のいやしい下心をいましめた

のである。彼は戦国乱世の兵法者とはちがう、現代人にも通じる社会生活の約束をこころえた、人生の練達者であったようだ。自らの生きかたを、武士

道に即して決めて行く、忍耐の美徳をこころえた達人であったといえよう。


津本 陽 「日本剣客列伝」より