東郷重位







天正十六年(1588年)五月初旬、東郷藤兵衛重位は京都にいた。 彼は島津藩第十一代藩主、島津義久の近習役である。薩南の太守義

久は前年の春、豊臣秀吉に降伏した。

一年後の上洛は秀吉の命で造営成ったばかりの聚楽第の外郭普請をおこなうためであった。 重位は金細工と蒔絵の特技をそなえていた

ので、義久は普請にその手腕をふるわせ、技量をさらに磨かせようと、彼を供の人数にくわえたのである。

重位は二十八歳、薩摩で広く行われている体捨流剣術を学び、豪勇の士が数多い家中でもひとかどの武辺者であった。初陣は天正六年(

一五七八)九月、島津義弘の軍勢に加わり、豊後大友義鎮の十万余の大軍を日向に迎え討ったときである。

剽悍をうたわれる島津勢も、雲のように山野を覆いつくす大友の大軍を前に人に酔い、蒼ざめあぶくを吹くばかりであったが、気を呑まれ鳴

りをひそめた島津の陣から、ただ一騎の鎧武者が大太刀を閃めかせて、敵の槍衾に斬り入り、味方の士気をふるいたたせた。

血刀をふりかたげ、死地へ駆け入ったのが十八歳の重位であった。全身に返り血を浴びた彼の姿は、不動明王の荒れる様のようであった

と、戦の後の語り草になった。

乱暴者揃いの島津家中でも武勇をうたわれる彼は、平素は物静かな立居をする男であった。少年の頃から曹洞宗寺院で座禅を行い、彫金

のほかに歌道、茶の湯もたしなんでいる。

重位の出自は、並の家臣とは違っていた。先祖は相模国早川に城郭をもつ渋谷太郎という、鎌倉幕府の御家人である。宝治二年(一二四

八)渋谷太郎は幕府の命で、地頭職として薩摩に下った。

渋谷太郎には六人の子息がいたが、長男は本領相模にとどめ、あとの五人に自分の治める薩摩の所領を五つにわかって与えた。

五力郷のうち、東郷を所領としたのが重位の家祖東郷重実である。渋谷一族は薩摩北部の知行地にいて、南薩大隅に覇をとなえていた島

津氏と反目抗争を繰り返すことになる。島津氏の家祖忠久は、渋谷太郎と同様、建久三年(1192年)に鎌倉幕府の地頭として薩隅の地に来

た者であった。戦国大名となった両家族は、天文、弘治、永禄と二十三年間にわたり死闘を繰り返し、元亀元年(1570年)重位の父重為は

島津家に降伏したのである。

東郷一族は重位が十歳のとき東郷の城を追われ、国分に移住した。重位は父重為、兄重治とともに島津家の臣となった。重位は京都滞在

中に洛西の禅院、万松山天寧寺にしばしば座禅に通った。

そのうち和尚の純吉に知遇を得た。ある日、純吉和尚は重位を方丈へ招いてたずねた。

「お手前は剣術を学んでおられるか」 重位は答える。 「いかにも、体捨流を学んじょい申す」 「体捨とは体を捨てるというのか。名をもって

考えれば、その剣術は今だ浅いように思われるが」

鈍吉は筆をとり懐紙に白坂の二字を記し、重位にみせた。「自顕とは、察しがたき蘊奥の義理をあらわす意じゃ。当寺には自顕と称する剣

術の奥儀をきわめた出家が住んでおる。名を善吉書記という。その術を学ぶ気はないか」
重位は和尚に勧められ、善吉書記の姿をかいまみることにした。彼は早朝に天寧寺へ行き、純吉に望楼へ導かれる。雨戸のひび割れに眼

を寄せれば前庭が一日に見渡された。しばらく待つうち、白衣長身の僧が奥庭から箒を使いながら姿をみせた。眼をこらすうち、善吉は前

庭を掃き終え、塵溜に落葉を捨てた後、辺りを見まわす彼は突然仁王立ちになり、静かに左足を前に押し出すと、双手で握った箒を左腰の

まえに水平にかまえ、発句を口にした。「濁り江に映らぬ月の光かな」善吉の姿、眼色のすさまじい殺気に重位は押され、眼を伏せ二度と見

ることができない。彼は善吉に会い、入門を乞うて許され、自顕流を伝授されることになった。

善吉はまず木刀をとって重位と立ちあい、彼の自信を完全に粉砕する強みを示したのち、自顕流の打ち業を教える。

「当流の構えは、トンボというものがひとつあるのみじゃ。トンボとは、子供が右手で棒をふりあげ、打つぞと構えた姿に、左手を添えただけ

のもの。すべての業はトンボから発する」 善吉は木刀を持つ右拳を耳の高さにあげ、左手をそえる。

自顕流で重位が初めに学んだことは、太刀を握る左肱を動かさないという秘事であった。左肱は胸に付け、すこしも動かしてはいけない。そ

の教えを左肱切断という。左肱は切りすてたかのように動かさず、太刀の柄をにぎった右の拳を、つぶてを投げるように敵に向かい振りおろ

すのである。

白顕流の必勝の業を打ちだすためには、太刀を早く振らねばならない。そのため手元の動くことを嫌うのである。動けば打ちこみが遅れる。

遅れたならば、当流の業は生きてこない。

手元が一分動けば太刀先は一寸遅れ、手元が一寸動けば太刀先で一尺の遅れをとる。 善吉は打ちの業を重位に教えた。

自顕流の基本業に、立が太刀というのがある。ロで立といってみれば、言う前に舌は上顎につき、言い出せばいち早く離れる。その動きに

ひとしく、刀を抜きだして振り上げるやいなや、はたと打つ太刀をいう。

刀を抜いて後、差しだし、また振り上げ打つのは遅い味として避けねばならないと、善吉は説いた。 双の太刀とは敵と太刀先を交えたとき

、敵の動きよりも一瞬早く打ち込み、さらに先手打ちを重ねる業である。 越は早く強い太刀打ちの業、寸はうしろつまり、または岸、あるい

は崖、あるいは隅にゆき詰まったときの業である。

満の太刀は自顕流の根本に通じる激烈な打ちこみである。ひらくときには三千大千世界に満ち、縮むるときは方寸のうちにありというのが

満の字の語義であり、その威勢を剣にこめ相手を打つ業である。

人間の生れでるときは、一代の威勢があふれでるものである。生れでた赤子は万事を知らないため、貴人高家をも恐れず足蹴にし、いかな

る名剣をも足に当れば踏み折ろうとする。この広大な心持で刀をとって打てば、打てないものはないというのである。

師弟の稽古は毎夜続けられた。おびただしい打ち業を、打太刀と仕太刀にわかれ、くりかえす。

重位は稽古を重ねるうちに、自顕流の太刀業の恐ろしさがわかってきた。「いましめの、左の肱の動かねば、太刀のはやさを知る人ぞなき」

「左よりはじめて打つな右の手の、うごきて後はとにもかくにも」 左肱切断の道歌に従う、右拳のみの打ちこみは、重位がそれまで体験した

ことのない異様な速さであった。

半年問の稽古で、重位は自顕流のすべての太刀業を学び、正伝を得た。

天正十六年十二月十六日、重位は善吉と別盃をくみかわす。善吉は三巻の伝書を重位に授けた。

薩摩国、国分鳥越の父の館にもどった重位は広大な庭園のなかで積古をはじめた。打太刀、仕太刀の独り稽古をおこなうほかに、立木打

ちの苦行をおこなう。自顕流の業の神髄を生かすためには、立木打ちを重ね、進退、駈けひき、腰のカを練って、一刀に雌雄を決する石火

の太刀筋を体得しなければならない。

立木打ちとは木刀をトンボに構え、四、五間の距離から走りかかって、「チエーイ」という長く尾をひく気合とともに左右の袈裟を打ちつづける

ことである。

トンボの構えは八双よりもはるかに高く木刀を捧げ、刃先を体の右ななめ後方にむける。 そのため、ひねり打ちで打ちおろす太刀筋は他

流派とは比較にならない激烈なもので、赤樫の木刀では一撃で折れる。 重位は山野に自生する柞の木を切りとってきて、凧刀よりも重い

四、五百匁のものを陰干しにし、手製の木刀をつくった。

左肱を胸にあてひきしめ、右拳でうちおろす立木打ちは、朝に三千回、夕に八千回という言語に絶する苦行であった。

疲労に全身が疹き、不眠の夜が続いても重位は挫けなかった。ただ一撃で敵を三万地款の底までうちこむ、不動不抜の腰をかためるため

である。

自白顕流の百にちかい打ち業は、国分に帰っていくばくも経たないうちにすべて体得し、渋滞するところのない水の流れるような太刀捌きを

おこなえるようになった。

重位が全力をふりしばって立ちむかっても遠く及ばなかった、善吉のおそろしい太刀業は、立木打ちの荒稽古から生れたものであると、重

位は覚った。

彼は奥庭の、ふた抱えもある柿の木にむかい、打ちこみの稽古をつづけた。善吉は三年のあいだ、一日も休まず立木打ちをおこなうよう、

すすめていた。

業を磨きつづければ、極意は自然に歩み寄ってくるものだといった善吉の言葉を重位は信じ、なみの者であれば三日と続けられない修行を

おこなう。

千日は過ぎ、柿の木は重位の打撃にょって枯木となっていた。彼の構えは三年前と別人のように変っている。

立木打ちによって足腰が練られ、野獣のように柔軟で敏活な動作を、になったのである。

重位が自顕流という上方の剣術を使うという噂はいつか島津家中にひろまっていた。彼の剣技を示す最初の機会は、家中に強剛の名を知

られた重職の士の誅殺を命ぜられたことで、めぐってきた。

彼は上意討ちを見事にはたし、自顕流の名は家中に高まった。重位は二刀の切先をそろえ同時にうちふる独得の業を用いる強剛の士を一

瞬に、立の太刀で左肩から腰骨まで斬り裂いたのである。

彼の剣名が知られると、家中の乱暴者たちがわれさきにと勝負を挑んできた。鹿児島の武士たちは、彼が上方で学んできた剣術によって、

家中での武辺者を討ちとめたことに反感を抱いた。

最初に挑みかかってきたのは、島津義久の陸小姓として、かぞえきれないほどの功名をたてた武士である。

重位は試合に応じ、ユスの木刀をとって立つ。相手は真剣でたちむかってきた。重位はトンボに構え、相手は左上段である。

静寂をひきさく気合とともに、相手は面に斬りこんできた。重位は彼の動きにあわせて踏みこみ、頭上に飛んでくる相手の刀の柄を打った。

ユスの木刀は、相手の左手を誤たず打ち、親指はつぶれ、他の四本の指はちぎれて地上に落ちた。

惨敗を喫した陸小姓の朋輩が、その場で重位に挑んだ。重位は即座に衆知する。彼は自顕流を何としても薩摩の地にひろめたい念願を抱

いていた。

そのためには行手を阻む者を、断呼として打ちふせねばならない。 あらたな相手は、下段青限から右袈裟のするどい打ちこみを見舞って

きたが、重位は刃先をかわしっつ下腹を横なぐりに打つ。

相手は股の骨が折れ、意識を失ったまま、息をひきとった。

家中の乱暴者たちには、重位の実力がまだ分っていない。重位が勝利を得たのは僥倖によるものであると思っている。だが、彼らの力量は

重位に劣ることはなはだしい。

剣術の試合で、相手に勝つための条件は、打ちこみと進退の迅速である。ふたつの動きが相手よりも遅いときは、絶対に勝つ見込みはな

いという鉄則が、乱暴者たちこは理解できていなかった。

相手と剣尖を交え、たがいに打ちあう間合いになったとき、踏みこむ足が早ければ相手の動きを押えることができる。また剣の動きが相手

より早ければ、どのような業をもくりだすことができる。重位は千日間の立木打ちの苦行で、勝つためのふたつの条件を、わがものとしてい

る。

自顕流では動きの早さを計るものさしとして、一呼吸という名称が定められていた。一呼吸とは手の脈が四回半、搏動する間のことである。

一呼吸を分と呼び、それを八つに分ったものを秒と呼ぶ。秒を十に割ったものを糸と呼ぶ。糸の十分の一早さが忽、忽の十分の一の早さが

毫、毫の十分の一が雲燿である。

雲燿とは稲妻のことであった。その早さは堅い板のうえに薄紙一枚を置き、それに研ぎすました錐をあて、紙の表から裏へ突きぬく時間を

指す。

自顕流の極意とは、打ちこむ太刀の早さが雲燿に達することである。重位は千日の修行によつて、雲燿の業を会得したと信じていた。 他

流を学ぶ兵法者は左肱切断の構えを知らないため、いかなる達者であっても太刀の早さが糸をこえることはない。

糸というのは壮年の勇士が、親の敵、主君の讐にめぐりあい、精神をこめて斬りつける太刀の早さである。

また自顕流の足運びは、敵に対したときしずかに小幅で歩み寄り、トンボの構えから打ちだすとき、大股に踏みこむのである。

歩幅は三足に三間以上を飛行するのが極意である。飛行というのは飛ぶのではなく、踏みだす勢いで足をすべらすことである。

三足に三間を進むのは、稽古によってできないことはないが、脈が一回打つあいだに三間を進むという極意の業は、容易におこなえるもの

ではない。

かりに脈一動のあいだに三間を進めたとしても、足をとめると同時に雲燿の早さで剣をうちこむのは、なみの兵法者には不可能なことである。

迅速な移動で体の均衡が崩れ、打ちこみが弱くなるのを防げないためである。 家中の乱暴者どもは、盛風力の輩とも呼ばれている。盛風

力とは仏教にいう言葉である。体を風台といい、その動きはたらくことを風力という。盛風力とは体力のもっとも壮なるものを指す。

盛風力の輩のなにものをも怖れない無念無想のめくら打ちは、それなりに非常の威力があり、糸の早さはそなわっていると重位はみていた

。が、いずれにせよ雲燿には比ぷべくもない。

重位の剣名がさらに高まるにつれ、盛風力の輩から仇敵のように狙われるようになった。彼は一日、家中の門閥鎌田出雲守から囲碁の誘

いをうけた。

重位は鎌田の屋敷へ出向くが、待ちうけていたのは三十人の家中の士で、そのなかに十人を超す盛風力の輩がまじっていた。

彼らは重位が烏鷺をたたかわせはじめると、傍にきて挑発しょうと雑言を吐いた。

そのうち出雲守は槍の名人中江主水佐と立ちあってみよと、重位にすすめた。盛風力の輩が木刀を重位の膝もとへ置く。

当時、戦場で長槍に突きかかられれば、太刀で槍先を打ち留めることは不可能とされていた。剣術諸流派に槍留めの業はあるが、実際に

はおこないがたいのである。

槍は突くことも、横薙ぎに薙ぎたてることもできる。太刀でさえできないとされる槍留めを、木刀でおこなうのは自殺にひとしい行為であった。

木刀では槍の柄を切り折ることはできず、一度や二度は防いでも重ねての攻めをうければ突かれることにきまっている。

「重位どん、よか腕前をば披露せんか」

盛風力の輩がせきたてるなか、襷がけで二間柄の真槍をかまえた中江主水佐が、姿をあらわした。

「儂を突っ殺すとか。なんの、誰が突かれようぞ」

重位は木刀をとり一瞬に立ちあがった。

あれがトンボの構えかと、周囲の者は息をのむ。

重位がいまにも中江に串刺しにされると皆は見守るが、中江ま動けなかった。重位の頭髪逆立てた顔からは、すさまじい鬼気がつたわって

くる。

中江は小半刻も動かずにいたまま、進退できない。動けば重位の木刀が飛んできて、打ち殺されると感じるのである。

彼は気力を失い、構えたままの姿勢で槍をはなし、畳に膝をつくと重位を拝した。

「恐れ入り申した。とても拙者の及ぶところではあいもはん」 重位は中江主水佐の槍を気力で制圧したのちも、上意討ちの数をかさね、凄

愴な剣の冴えをあらわしていた。

ある朝、重位は義久の命で本丸櫓下の広場で上意討ちをおこなうことになった。櫓からは義久が見下している。

重位は誅殺すべき武士が登城してくると、声をかけた。「その方は上意により、ただいま打ち果すなれば、用意をいたせ」 相手は太刀を八

双にかつぎ、獅子のように突進してきた。重位はむかえうち、二本の刀身がひらめく。

櫓からみていた義久は、一瞬のうちになにやら黒いものが宙に飛び、重位の相手がくずおれるのをみて、拍子抜けする思いであった。

義久は重位を召していう。

「さてさて予は、人一人を殺すからには、さだめし物騒ぎなるものならんと思うていたが、わけて静かなるものじゃな。

そちの首尾如何あらんと気遣いしに、何のこともなし。 遠眼には傍のほうへ外したるように見えたのみであった」
重位は答えた。

「なんと申しても、出合い物を討ち果たすのは余りに呆気ないものにてございます。 敵に刀を振らしめたるうえで、斬りかかるところを討ち

果たせばようござったに、御見場をなくしもうした」

その後、重位は島津家兵法師範、体舎流の使い手、東新九郎と立ち会うことになった。

東新九郎は、島津義弘・家久父子の寵愛をもっぱらにしている。 新九郎との試合は、家中での剣名とみに上がった重位にとって避けられ

ないものであった。

試合は城内の小板屋と呼ばれる道場で行われた。 家久をはじめ、歴々の上士が居流れる中で、重位は新九郎と立ち会った。

新九郎は無二剣の構えをみせるが、重位は腰の木刀の栗形を左手で握り、抜きあわせずにいる。
新九郎が気合いを放っても、重位は無言でいた。

無二剣の剣尖が重位の頭上に踊ったとき、重位の異様な気合いが観衆の肺腑をえぐった。

彼の打ち出しの形は誰の眼にも見えず、木刀をトンボに構えたまま後退るのを眼にしたのみであった。

新九郎は畳に腹這っていた。 両肩が抜け、起きることができない。彼の木刀は二つに折れ、柄は畳に落ち、刀身は障子を突き破って庭に

落ちていた。

新九郎を寵愛する家久は、重位を奥殿に呼び、手討ちにしようとしたが、扇子でしたたか手首を打ちすえられ、果たさなかった。

家久は、その後も重位に敵意を抱く。

彼は、ある時八寸厚みの茅の碁盤を斬り割ってみよと重位に命じた。

碁盤は広い平面で、刀の物打ちを当てるのは難しい。 しかも茅には粘りがあり、鉄よりも斬りにくい。

重位が失敗するのを待っていた家久は、重位の剣尖が碁盤を真二つに斬り割り、畳を裏まで斬り通し、さらに一寸厚みの松の床板を貫い

ているのを見て驚愕した。家久は感動して、それまでの態度を変え、重位に自らの脇差しを与えた。 まもなく重位は家久の剣術指南役に

任ぜられた。ついに、島津家中での自顕流の基盤は動かぬものになったと

、重位は感慨無量であった。 ときに文禄四年(1595年)彼が初めて自顕流を学んだ時から、7年の歳月が経っていた。 その後、家久の

すすめで重位は自顕の二文字を示現と改称した。

観音経の中の示現神通力の言葉からとったものである。

島津家お留流となった示現流の師家として、家久をはじめ家中の士の指南を行う重位は、坊の地頭に任じられた。 食禄は千石を与えられ

たが、六百石を返上し、四百石を拝領した。

慶長六年(1601年)41歳の重位は家久の勧めで妻帯し、3年のうちに3人の子女をもうける。

19度に達した上意討ちも、家中の情勢がおさまった後はあらたな沙汰がなかった。 重位は、礼儀正しく恭謙な態度で弟子に接し、平穏な

生活をつづけていた。 坊の津へは1年の内2ヶ月ほど出没する。 そこでは、百姓の取り扱いが苛酷にわたらないように、仁政を敷いた。

「重位どんは、よか地頭じゃというが、猫んごつおとなしかようじゃ。 昔の技前は、鈍ったとじゃなかか」 「そら分らん、明けてん暮れてんお

なじ型稽古じゃ。 真の腕はいけんなったか、知れたもんじゃなか」 家中の乱暴者どもに陰口を叩かれながら、老いをむかえた重位は、62

歳のとき、ながらく顰めていた技量をあらわす機会を得た。

元和八年(1622年)の春、彼は家久に随伴して江戸薩摩屋敷にいた。

家久が江戸城登城の際には身辺に従い、凛然と歩をすすめる。 六尺豊かな偉躯が人目をひいた。島津家お留流としての示現流が、いか

なる秘法であろうかと知りたがる者は、幕閣のうちにも多い四月初旬、福町七郎左衛門、寺田藤助という二人の旗本が、突然島津屋敷をお

とずれ、重位との試合を求めた。彼らほ柳生一門のうち、一、二を争う高弟で、家光公側近として、柳生剣法の指南役である。福町たちが試

合を望んできたのは、家光公の指図によるものと推測され、むげに断ることもできない。しかし勝てば家光公の不興を買う。家久は重位と江

戸表用人に命じた。 「いったんは断わっても、再三に押して望んで参れば、いたしかたもなか。儂には知らさぬふりをして、お主らが内々の

こととして立ちあいを受けてもよかろう」福町たちは、予想の通り重ねて申し入れてきて、試合はおこなわれることとなった。

立ち合いの日は四月十九日、場所は島津屋敷の大広間である。福町、寺田は、八人の旗本とともに到着する。

重位は高弟、児玉筑後守を介添役、用人伊勢貞昌を検分役に頼んだ。

最初に立ちあったのは福町であった。三十五、六の年頃の福町ほ、木刀を青限にとる。 重位はトンボに構え、左足を半歩踏みだす。

「太刀をすっと抜き、抜きたる拳を少しも動かさず、左手を添え、少しもとどこおらず、満の打筋を敵に切り掛くるべし」 重位は伝書の示す通

りに動いた。

福町は気合いを放ちつつ、左右に体を移す。 彼は眼前に立ちはだかり、わずかな乱れもあらわれない重位に気圧され、焦った」

彼は、柳生流の「打草驚蛇」の業を用いようとした。 草の中の蛇を打つように、思いがけないことをしかけて、敵をおどろかし、体勢を崩す

のである。

福町は間合いを詰め、踏み込んで重位の右小手を打とうとした。 防がれれば、二段、三段の業を続け打ちに打ち込むのである。しかし、

福町の思惑は食い違った。  彼の剣尖が激しく払いのけられたとき、鼻先につかんばかりに重位の顔が迫っていた。

福町は反射的に身を避けるが遅く、重位の強烈な打撃を右胸にうけて倒れる。肋を打ち折られた福町は血泡を吹く。

替わって、寺田藤助が立ち会う。 重位は、こんどは激しく攻めたて、たちまち彼の手元に飛び込み、両手首を打ち、寺田は木刀をとりおとし

た。

二人は敗北を認め、その場で重位の弟子となることを誓い、入門誓詞をしたためた。  福町は翌日に死んだ。

重位は、旗本たちの報復を避け、その日のうちに廻船で国表へ戻った。 家中の士は、彼の力量が昔時に比べまったく衰えていないことを

知らされたのである。

重位は寛永二十年(1643年)の春、痢病で世を去った。 辞世の発句はつぎの一首である。

             
「今日の暮れ、風待つ霧の籬(まがき)かな」