小野次郎右衛門
一刀流二代宗家小野次郎右衛門忠明は、前名を神上典膳という。
家系は大和の名族十市氏の後裔で、上総国夷隅郡丸山町神子上に流寓して里見家に仕えたものである。
典膳の曽祖父大蔵は里見十人衆頭、六百石の重職で、祖父庄蔵は里見の盟族万喜少弼の臣として百石を享けていた。
庄蔵は天文三年(一五三四)の犬掛合戦で、敵の強剛木曽新吾と相討ちで戦死したという。やはり武勇をもって聞えていた人物であったのだろう。
神子上典膳が戦場で名をあらわすのは、天正十七年(一五八九)十一月のことである。万喜家と里見家のあいだに紛争がおこり、里見家が万喜城を攻
めたとき、典膳は二十人の徒士衆をひきつれ敵陣に潜行し、里見方の大将正木大膳に一騎討ちをしかける。決闘は乱軍にへだてられ中断したが、典
膳の武勇は敵味方に知れわたった。 彼が伊藤一刀斉の弟子になった年月は不明であるが、合戦の後まもない頃であったと思われる。
一刀斎が諸国遊歴の途中、上総の国にきて、万喜城下に立ち寄ったのがきっかけであった。当時兵法修行者が訪れた土地で他流試合を求める時は、
逗留する旅宿の前に高札を立てるのが慣例であった。
一刀斎も、兵法試合を望む者があれば相手となる旨の高札を立てたが、彼の剣名は広く天下に鳴りひびいているので、試合を所望する者がいない。
万喜家中では神子上典膳を一刀斎の相手に推す者が多かった。「典膳であれば、一刀斎といえどもつけ入らせないかもしれぬ」 家中随一の強豪の名
を得ている典膳は、三神流という、あまり名の聞えない剣術の使い手であった。一刀斎の閲歴は謎にみちているので、万喜城下を訪れたとき、何歳であ
ったかはわからない。生年は天文十九年(一五五〇)と永禄三年(一五六〇)の二説があるので、三十歳から四十歳の間の年頃であったことになる。
典膳の年齢も不明だが、二十歳をいくつか過ぎた青年であったのだろう。彼は一刀斎に試合を挑んだ。一刀斎は典膳を一瞥して告げた。
「そなたは何なりと得物を選べばよかろう。儂はこれで相手をいたそう」 一刀斎には善鬼という高弟が付き添っていた。
廻国修行の途次、他流試合を挑んできた者には、まず善鬼が相手をするのが通例となっていたが、一刀斎はなぜか自ら手近にある一尺余の薪をとり、
典膳を庭へ招いた。
典膳は使いなれた波平行安二尺八寸の業物を手に立ち向かう。使いなれた愛刀を抜きはなち、脇構えで一刀斎を両断してやろうと意気ごみすさまじく
立ち向かったが、眼前に一刀斎の巨体が動いたかと思うと、刀を奪いとられていた。 一刀斎は刀を縁先に転がし、座敷へ入ろうとする。
「お待ち下され、いま一度お手あわせをお願い申す」 典膳は木刀をとってふたたび立ちあった。
気合もろとも打ちかかるが、いきなり木刀を打ち落とされ、両手が痺れた。彼は必死で木刀を拾い、なんとしても一矢を酬いようとくりかえし勝負を挑ん
だ。一刀斎は薪を手に、幾度でも応じてくれた。典膳が襲いかかると、彼は軽々と身を運び、間合いの外にいた。薪が一閃すると鉄棒で打ちすえられる
ような衝撃が木刀に加えられ、典膳はたまらず柄から両手を離した。 数十度挑みかかってみたが、結果は同じことであった。木刀を打ち落とされ、足
搦みで突き転ばされ土を噛むのみである。典膳はなすところもなく完敗して帰宅した。一刀斎に子供扱いにされ自信を喪失して終夜考えこむが、翌朝に
は再び出向いて入門を請うた。彼にとって、一刀斎は氏神の化身であるとしか思えない。師と頼むべきは他にはないと思いきわめたのである。
典膳は一刀斎と内弟子の善鬼に従い、諸国を廻遊するうちに、二人の奇怪な経歴を知った。一刀斎は自らの生地を口にしたことはなかったが、善鬼が
教えてくれた。
「僕の知るところでは師匠は伊豆大島の生れよ。十四歳のときに兵法で身を立てようと思うて、板子一枚にすがって海を渡り、伊東の東南半里の三嶋と
いうところに泳ぎついたのじゃ。
三嶋の村の者は、師匠が陽に灼けすさまじい顔つきであったゆえ、嶋鬼がきたと怖がったそうじゃ」
善鬼の語るところによると、一刀斎は嶋鬼と呼ばれるまま自らを鬼夜叉と称し、三嶋神社の床下に住みつく。他国から流れてきた者が、神社仏閣の軒
下に住みつくのは、徳川時代の末にいたるまでめずらしいことではなかった。
住みついた者は庭掃除やら築地の崩れを直す下男の役をして、食を恵んでもらうのである。 そのような暮らしを続けるうちに、手先の器用な者は大工
の棟梁になる。
鬼夜叉は神社で養われるうち、富田一放という兵法者が三嶋にきたので、試合を挑んだ。 「富田というのは、なかなかの達者であったが、師匠は我流
で立ちあい、さんざんに打ち込んで、富田は面目を失うて逃げてしもうたんじゃ」 善鬼のいうところが誇張ではないと、典膳には分った。一刀斎の太刀
筋は後に中条流の達人 鐘掩外他通宗に鍛えられ、自らの流儀を外他流と称しているほどであったが、野獣のような本能に導かれた俊敏な進退は、余
人の追随を許さないものであった。
三嶋神社の神主は、鬼夜叉が富田に勝利を得たのを知ってよろこび、彼に問う。 「お前は兵法によって身をたてる望みを持っているのか」 鬼夜叉が
然りと答えると、神主は彼を励ますため、備前一文字の銘刀を与えた。それは以前に奉納されたものであったが、長年月社殿の棟木にくくりつけていた
ところ、縄が朽ちて床に落ちた。 そのとき、真下にあった神酒の甕をつらぬき、刃をすこしも損じなかったので、甕割りと名づけられていたものである。
鬼夜叉はよろこび、諸国を遊歴して善き師を求める旅に出ることにした。その夜、五、六人の盗賊が押しいった。鬼夜叉は神主にもらいうけた柄拵えも
ない刀身をふるって賊をすべて斬り倒した。
「師匠はそれから江戸へ出て、鐘掩自斎の門に入って修行をしたのじゃが、日も経たぬうちに同門に誰一人として肩をならべる者がおらぬようになった
。自斎はそれを知っておったが、奥儀をなかなか教えぬ。それゆえ師匠は自斎に剣の妙諦を覚ったと申された」 善鬼の口調に熱がこもった。 彼は両
眼を爛々と輝やかせていう。「自斎は言うたそうじゃ。おのれごときわが門にて五年に満たざる新参者が、剣の妙機妙諦を知るなどという、おこがましい
ことを口にするのは、無礼じゃとな。師匠は、妙は自ら覚るところで、師伝にもあらず年月の長短にもあらず、この場にて私の悟りし妙諦をご覧にいれま
しょうと答えたのじゃ」自斎はうながされるままに木刀をとり、鬼夜叉と試合をする。三度立ちあったが、自斎は三度とも打ちこまれ、敗北した。
自斎は動転して鬼夜叉に聞いた。「儂はこれまで諸国を遍圧してあまたの武芸者と手合せをいたし、いまだ遅れをとったることなく、そのため天下に名を
知られた。ところがいまお前と立ちあい、なすところもなく敗れた。お前はいかにしてかような剣の妙諦を覚ったのか」
鬼夜叉は答えた。「人は眠っている間にも、足がかゆければ足を、頭がかゆければ頭を掻くものでござる。人には体の害を防ぐ働きが自ずから備わって
いるのでございましょう。お師匠様が私を撃つのは虚のうごきにて、私が本性に従い防ぐのは、実の動きであれば、これ勝を得る所以でござろう」自斎は
多いに感じ、流儀の秘伝をことごとく鬼夜叉に授ける。 鬼夜叉は師の好誼を深く謝し、その後伊藤一刀斎景久と名乗り、諸国修行に出ることとなったの
である。
「どうじゃ、うちの師匠が並はずれて強いわけが分ったじゃろうが。儂はいま師匠の一の弟子じゃが、天下広しといえども師匠のほかには敵のない腕に
なっておる。いずれは儂が日下開山天下第一等の兵法者になるわけよ。そのときはお前も弟分ゆえ、とりたててやるぞ」 善鬼はわが腕前を誇る。
一刀斎の身辺に、並の人間には感じられない妖気がただよっているのと同様に、善鬼にも無気味な蕭殺の気配があった。
善鬼の前身は、淀の川舟船頭である。当時の名はわからない。彼は大力のうえ体が逞ましく、動作が早いため、仲間の間では恐れられていた。彼は京
都から大坂へ下る船に乗りこんできた一刀斎をみて、嘲弄した。「お主は諸国修行の浪人か。ことごとしく背中に木刀など負うているが、ひとつ聞きたい
。兵法と申すものは刀の使いかたに工夫をこらすものであろうが、人が持って生れた地力には勝てぬものであろう」 一刀斎は答えた。
「そうではない。力が技にまさるということはあり得ぬことだ」 「そうか、ならば陸へ上がってお前と儂が勝負をつけようではないか」 船頭に誘われ、一刀
斎は承知した。船を陸岸につけ、たがいに試合のうえで死んでも異存はないと、立会人を得て誓いあう。船頭は櫂を得物に上段から打ち込んだが、一
刀斎は苦もなく身をかわす。船頭は間というものを知らないため、したたかに地面を打ち両手が痺れた。身を引こうとしたとき、一刀斎が踏み込み木刀
で小手を打つと、相手は擢を落としおそれいった。 船頭はその場で詫び、弟子になることを請うて容れられ、善鬼の名を得たものある。
このように彼の経歴も異様の感がある。善鬼は高弟となり諸国をめぐるうちに、試合の数をかさねても誰にも敗北を喫しないようになると、異心をおこし
た。「儂は師匠をいただいておるが、これさえなければ天下に敵というものがない、最強の兵法者になれる」 彼は廻遊の旅を重ねる内、宿に着くと一刀
斎の寝所に忍び寄り、隙あらば殺害しようと寝息を窺うようになった。
一刀斎の起居に隙のあるはずもなく、彼は善鬼の意図を早くも看破する。善鬼を手討ちにするのは容易であるが、表向きの名目がないのに苦しんでい
るとき、神子上典膳とめぐりあったのである。
典膳は弟子となって間もなく、一刀斉と善鬼の奇妙な間柄を知った。一刀斎は典膳の素質が善鬼のそれに匹敵することを見抜き、弟子にした。
善鬼も典膳も、野獣のような闘争本能を身に備えていた。一刀斎は典膳を善鬼に対抗できる技前の兵法者にしたてあげようと、熱心に手のうちを伝授
する。彼は鐘捲自斎よりうけた妙剣、絶妙剣、真剣、金翔玉鳥剣、独妙剣の真髄を、典膳に教え、道統を継がせようと考えはじめる。 典膳は一刀斎
の眼に叶っただけに、めざましい上達をとげた。
一刀斎は威の位、移の位、写の位、を兵法の三大本義としている。 威とは静にして勢をふくむことである。つねに千変万化の動きを秘め、相手の出
方にあわせて技をだせる態勢という意であろう。
移の位とは過不足なく前後左右に身を転じ、敵の刃に空を打たせる動作である。
写とは残心の位の意味で、敵と白刃を交えて相対するとき、心を空にして敵の内心を写しとることをいう。
一刀斎の非凡な手の内を示す逸話がある。彼がかつて大酔して就寝しているとき、刀を奪われ蚊帳の吊手を切っておとされて、多数の敵に斬りかから
れた。彼は目覚めるなり徒手空拳で反撃し、敵の刀を奪って身を守ったという。
その伝説の真否は明らかではないが、いかなる剣豪でも酔って刀を奪われるほどの不覚を喫すれば、破滅するほかはない。世人は一刀斎の信じがた
いほどの天与の能力をいいあらわすために、そのような話をつくったのであろう。
一刀斎は、かつて師の鐘捲自斎に語ったように、刀術の妙諦をつかむ自然の才能を備えていた反面、用心ぶかく敵の手のうちを読みとろうとする、精
密な計算をもおこなうことができた。
「敵をただ打つと思うな身を守れ、おのずから洩る賤が家の月」
という一刀流目緑に記された有名な道歌は、現代剣道を学ぷ者も復誦して肝銘する、剣の真髄を喝破している。
懸中待ということを彼は説く。敵に打ちかかる態勢をとりつつ、敵の出方を窺うという意であるが、後年の千葉周作に及ぶ一刀流系譜をかざった名剣士
たちの、徹底した理詰めの剣の淵源は一刀斎に存するわけである。
一刀斎は諸国修行を重ねるうち、三十三度の試合を行ったといわれている。試合に勝てば相手を傷つけ、あるいは殺すこともある。自然に敵の数は増
え、仇とつけ狙われることになる。そのような環境での剣術の修練は、当然道場での竹刀稽古とはまったくことなるものになる。竹刀稽古では切先三寸
で相手を打てばよいが、真剣勝負では剣尖から七、八寸手前の物打ちで斬らねば、相手の死命を制することはできない。敵の白刃のもとに文字通り身
を挺して、はじめて敵を仕留める機をつかめるのである。一刀斎の油断のない日常を、彼の伝授書は語っている。
「旅宿に泊るときは、まず出入りの口をよく見分け、床の高位、天井の高さをたしかめておかねばならない。夜中に斬りあわねばならぬことがおこれば、
下段青限がよろしい。鴨居などに斬りつけるおそれがなく、闇中では敵を見あげるようにすれば、その動作を読みやすい。寝るとき刀は大小ともに枕頭
におかず、夜着の袖下に引きこんでおくのがよい。刀の下緒と脇差の下緒は交叉して枕の下に敷いておく。もし大小を取られるときは枕に響きが伝わり
、眼覚めるものである。また入口のほうを枕に寝るものではない。入口は足元にすべきである。
一刀斎は善鬼、典膳の二人を伴い兵法修行の旅を続ける内、典膳を後継者に選ぶことに決めた。善鬼の技は精妙をきわめているが無頼の性質は改
まらない。典膳は道義をわきまえた武士である。
一刀斎は典膳に道統を継がせるためには、彼に善鬼を斬らせる他はないと考え、下総国相馬郡小金ケ原に旅したとき、二人を招いて命じた。
「儂は少年の頃より兵法に志し、諸国修行に明け暮れたが、儂と五分に立ちあえる相手に会ったことはない。天下随一の兵法者になろうと願った儂の
志も、およそ達したことになる。このうえは世俗より身を引き、神山と化したいと思うが、その前に甕割りと申す我が秘蔵の太刀をお前たちに授けたい。
さりながら刀はひと振りで受ける者は二人である。それゆえそなたたちはこの場で雌雄を決するがよい。勝った者に刀をつかわそう」
善鬼と典膳はよろこんで決闘をおこなう。
相弟子ではあるが、師の名跡を争う宿敵でもある二人は、血戦数刻を重ねるが互いに相手の手の内を知りつくした二人の争闘は激烈を極めたが、一
刀斎の予測の通り、典膳が勝利を得た。
一刀斎は甕割り刀を典膳に授けていう。 「今より儂は兵法を捨て唯心の道に入る。お前は帰国してわが流儀をもって世に立て」一刀斎の行方はその後
、杳として分らない。
あまりにあざやかに足跡を絶ったため、後年に及んで典膳が殺したのではないかと、噂がたったほどである。
典膳は故郷に帰り剣術道場を開いたが、名声は四隣に轟き、入門者は増えるばかりである。その内に江戸へ出て駿河台に居をかまえ、剣術を教授す
るようになる。
ある時、江戸近郊の膝折村というところで、甲斐の鬼限という者が人を斬り、そのまま家籠りするという事件が起こった。 家籠りした者をとらえるのは、
至難の技である。火をかけて追い出すのが便法であるが、隣家に延焼する危険があり、表戸を打ち壊して踏みいれば、待ちかまえた家寵りが死に狂い
にあばれ、被害は莫大となる。
膝折村の村長は江戸へ出て、検断所へ訴えていう。 「甲斐の鬼眼は身の丈七尺で、日頃より大剛の聞えある者でございます。それゆえこれを斬るには
神子上典膳様にお願いいたすほかはありますまい。なにとぞ典膳様に仰せつけ下さいませ」
町奉行は典膳を呼び、鬼限を打ち果させることにした。 たまたま典膳は病み、高熱で床に就いていたが、辞退すべき場合ではないと命を受けた。いか
に熟練の兵法者でも、高熱に悩まされておれば日頃の技をあらわすことはおばつかないが、典膳は名をあげる機会を命がけで掴もうとしたわけである。
彼は鬼限の寵っている家の前に立って、大音声に告げた。 「神子上典膳が公儀よりの仰せで江戸より参った。そのほうは外へ出て勝負をいたすか、そ
れとも拙者が家内へ踏み入ろうか」 鬼限は答えた。「神子上典膳ならば相手にとって不足はない。今日この場でお眼にかかれるのは生前の仕合せと
いうものである。ただ今こちらより罷り出よう」 鬼限は三尺の大刀をふりかざし、屋敷の前に躍り出て、膝折坂という急坂を駆け下ってきた。
坂の下から進む典膳は、刀を右脇にかまえて鬼眼が打ちこんでくる両腕を、下から斬り落した。彼は検使役の小幡勘兵衛に聞く。「罪人の首を打ち落と
してもよろしゅうござるか」 勘兵衛がうなずき、典膳は一刀に首を打ち落とした。
典膳は鬼限の腕を斬ったとき、刀を握ったままの腕が落ちてくるのを避けそこない、刃が頸に当り血がわずかに出たのを恥じていった。
「左右への身の転じかたを誤りしは、拙者一生の不覚であった」
将軍家康は小幡勘兵衛の報告を聞き、典膳に三百石を与え旗本にとりたてた。彼が小野次郎右衝門忠明と改名したのは、二代将軍秀忠に勧められて
のことである。
彼は秀忠の剣術の師として寵遇される。慶長五年(1600年)秀忠に従い信州上田城を攻めた際に功をたて、上田の七本槍と名を上げたが、軍律を犯し
たため真田信幸に身柄をあずけられた。
翌六年には召し返され、四百石に加増。さらに六百石に累進する。大坂役にも従軍するが、夏の陣ではふたたび軍律に反して閉門の処分をうけた。
このような経歴からも想像できるように、忠明は幕府という大組織では真価を発揮できない、天才であったようだ。
天才と狂気は紙一重であるといわれるが、忠明の振舞いには、常軌を逸した激しさがしばしばあらわれる。伊藤一刀斎から教えられた剣捌きは、弟子
に対するとき仮借なくあらわされた。
あるとき江戸城に詰める大名が忠明を招いて聞いた。「予の藩中に、そこもとの手筋を見たいと申す者がおるが、拝見させてやってもらえぬか」 秀忠
の指南役に、充分の敬意を払っての申しいれである。忠明は軽く応じた。「それは試合を望まれるのでござろう。さっそくお相手つかまつろう」 彼は大名
の家来と立ちあうなり、木刀を逆に持って構え、いい放つ。「さてもいらざる酔興のことを望まれしものかな。怪我をするのが気の毒さよ」 相手は憤怒し
、青限に構えて詰め寄る。忠明は苦もなく、その剣尖を打ち払い、両腕を打った。
「見えたか」といいつつ身を引き、「さだめし腕が折れたであろう」と見る。相手は失神し、小姓らの介抱でよみがえったが、両腕は忠明のいう通り折れて
いた。忠明の剣を執っての容赦のない荒々しさは、二代将軍秀忠にむかっても変らなかった。秀忠が剣術について自ら感ずるところを述べると、聞こう
とせず遠慮なく言上する。
「とかく兵法と申すものは、腰の刀を抜いての上でなくば、論は立てませぬ。坐上の兵法は畠の水練でござる」 彼の荒々しい言動は、しだいに秀忠の不
興を買うようになる。
たまたま両国橋の近所に剣術無双の看板をかけ、飛び入り試合を許した道場が開かれた。真剣にて試合い、斬殺さるも苦しからねばわれと思わん方
はお出であれと、高慢な貼紙で人を呼び、連日の盛況である。 忠明は門弟をひきつれ、桟敷にのぼって試合の様を眺め、辺りはばからず嘲笑の声を
ひびかせた。道場の主は怒って試合を求める。忠明は応じた。
「天下の膝元に、汝がような痴れ者をはびこらすわけには参らぬ」 彼は太刀をふりかざし斬りかかってくる相手の脳天に鉄扇をうちこみ、その場に昏倒
させ、引き上げた。
この噂が秀忠の耳に入り、天下の師範にふさわしからぬ下士の所業であると極めつけられ、蟄居を命ぜられることとなった。
忠明は柳生但馬守に向かい、日頃からすすめていた。「お手前の御子息にも愚息にも、真剣の立ちあいを覚えさせねばなりますまい。罪人のうちから
幾度も人を斬った経験のある腕利きの者に真剣を持たせ、試合の相手に立たせて斬れば、良き修行になりましょう」
但馬守は、「いかにも、いかにも」と相槌をうつのみで、相手にしなかったといわれている。 忠明の激烈な刃引き稽古はしだいに秀忠にうとんぜられ、柳
生流が引きたてられることとなる。天下一、柳生流、天下二の一刀流と世間にいわれるようになったのは、忠明の狷介な性格のしからしむるところであ
った。しかし剣の実力において、彼の優位は万人の認めるところであった。彼は一騎よく多数に当る術を、日頃から説いていた。
「敵が幾千人来ようとも、一時に我にむかえるのは、八方からくる八人の敵のみである。しかも八人の打つ太刀にも遠いもの、近いもの、遅いもの、早い
ものがある。たとえ広濶千里の野で戦っても、敵の太刀がわが身の二尺近くへ寄らねば斬られることはない。その太刀さえ制すれば、大勢もすなわち一
人に等しいことになる」
彼は柳生但馬守に手のうちを拝見したいと所望され、彼の屋敷へ出向いたとき、その理を実践してみせた。
彼はまず、但馬守に試合を促すが、但馬守は辞退して長男の十兵衝に立ちあわせる。十兵衛は忠明と向いあったが、たちまち木刀を投げすてた。
「忠明殿の剣は水に映った月のように変化自在である。わが剣を打ち出すべき隙がない」 忠明は平然と十兵衛たちに告げた。「但馬守殿は、拙者の
手のうちをご一見されたうえで、試合をいたされようとのご了見をお持ちではなさそうじゃ。さだめしご子息、ご門人衆の技の巧拙を試してもらいたいとの
ご意向のようじゃ。しからば一人試むるも大勢いっしょに試むると同じことでござる。そうすればお互いの手のうちが一時に分るというもの。遠慮なく皆う
ちそろいお掛り下され」
忠明の傲慢な誘いに応じ、高弟木村助九郎、村田与三、出淵平八の三人が忠明の前後から、打ち殺そうと剣気をみなぎらせてかかった。
正面から向う助九郎は、いきなり忠明に木刀を奪われる。左からかかった与三は手元を木刀で打たれた。平八は右後方から上段の太刀を打ち込うとし
たが、忠明は太刀の下をくぐり与三の後ろへまわった。 平八は忠明を打ち外し、勢いあまって与三の頭を猛打して気絶させた。
但馬守は試合の後、門人たちに様子を聞いた。彼らは口ぐちに答える。「小野様の太刀運びは、ただ水を切り雲を掴むようでございました。たまたま木
刀に当りますとはね返され、持ちこたえられませぬ。名人と申すのはあれでございましょう。そうでなければ世にいう魔法使いとしか思えませぬ」
忠明は剣術が実戦本位の刃引き、木刀の稽古から、竹刀で打ち合う道場稽古に移行する時期に、古流の遺風をのこした最後の剣客であった。
津本 陽 「日本剣客列伝」より