1.責任をとるとは
旧日本陸軍大将「今村 均」は、まさに徹頭徹尾、見事に自らの責任を果たした人である。インドネシアでは、民族独立を目指す
スカルノとの友情を貫き、ラバウルでは、日本陸軍7万人の兵を統率して、米軍の攻撃をものともせずに、兵士を玉砕も飢えもさせずに、敗戦まで持ちこたえ、無事に帰国させた。
戦犯として捕まった部下を救うために、自ら最高責任者として収容所に乗り込み、一人でも多くの部下を救うべ
く奮闘した。帰国後は、部下や、遺族の生活のために奔走した。その姿はマッカーサーをも感動させたのである。
責任をとるとはどういうことか、今村 均の生き方に学びたい。
2.あなた方と日本人とは兄弟です
昭和17年3月1日、今村中将は約4万の兵を率いて、ジャワに上陸、わずか9日間の戦闘で、10万のオラン
ダ・イギリス軍を降伏させた。これは現地人の絶大な協力の賜である。 たとえば、敵軍は退却時に、舗装道路の両側や中央線に植えられたタマリンドという喬木を切り倒して、日本軍
の前進を阻んだ。そこに多数の現地人が現れて、木を取り除くのを助けてくれた。休憩時には椰子の実をふるまっ
てくれた。 そのうちに、長老らしき人物が現れ、今村に言った。 この国では何百年も昔から「いつか北方から同じ人種が
来て、我々の自由を取り戻してくれる」と語り伝えられていますが、あなた方は同じ人種でしょうか。
今村は答えた。 われわれ日本民族の祖先の中には、この国から船で日本に渡ってきた人々もいるのです。あなた
方と日本人とは兄弟です。 我々はあなた方に自由を得させるために、オランダ軍と戦うのです。
ジャワ占領後、現地人からから、独立の闘士スカルノを獄から救出して欲しい、という多数の嘆願書を受けた今
村は、スカルノと会い、戦争終結後インドネシアがどのような状態になるかは、日本政府とこの国の指導者階級と
が決めるべき事で、自分の権限外だが、自分の軍政中は、オランダ統治時代よりもよりよい政治と福祉を約束した。
スカルノは今村の言葉を信じ、協力を誓った。
3.住民愛護の軍政方針
今村の軍政方針は、自身が起案した「戦陣訓」の「皇軍の本義に鑑み、仁恕の心能(よ)く無辜(むこ、罪のない)
の住民を愛護すべし」に則ったものであった。 たとえば、敵が破壊した石油精製施設の復旧に、民衆は全力を挙げて日本軍に協力した。今村は石油価格をオランダ
時代の半額とし、民衆は石油が安く使えると喜んだ。 また日本では衣料が不足して配給制となり、ジャワで生産される白木綿の大量輸入を申し入れてきた。しかし、白木
綿を取り上げたら、現地人の日常生活を圧迫し、さらに死者を白木綿で包んで埋葬する彼らの宗教心まで傷つける、と
今村は考えて、日本政府の要求を拒んだ。 今村の融和的な方針は、強圧的な軍政を行うシンガポールの日本軍幹部などから批判を浴びた。しかしその実情を調
べに来た政府高官達、軍幹部は、「原住民は全く日本人に親しみをよせ、オランダ人は敵対を断念し、華僑に至っては
日本人に迎合これつとめており」、あるいは、「治安状況、産業の復旧、軍需物資の調達において、ジャワの成果がず
ばぬけて良い」などと報告して、今村の軍政を賞賛した。
4.マッカーサーを諦めさせた堅固な要塞
8ヶ月のジャワでの軍政の後、昭和17年11月、今村は第8方面軍司令官としてラバウルに向かった。ラバウルは
ニューギニア島の東のニューブリテン島にある軍港である。ミッドウェー海戦の敗北を契機に、米軍は反攻を始め、い
ずれここが戦場となる運命であった。 今村は日本からの海上補給はいつまでも続かないと判断し、現地で自活しつつ、持久戦を展開する方針を立てた。国内
から農事指導班、農具修理班を呼び、陸稲や野菜の種子を持ち込み、中国人、インド人、インドネシア人などの労務者
4千人を集めた。今村自ら率先して開墾作業に従事し、昭和20年には一人あたり200坪の耕地面積を開墾して、陸軍将兵7万人の完全な自給自足体制ができあがった。
昭和18年10月からは、連日400機以上の大編隊の空襲にさらされる。今村は空襲に耐えうる地下大要塞の建設
に着手する。壕の入り口には爆撃の衝撃を緩和させる為の土嚢の障壁を配置し、また、壕内には入り口直近での爆発の爆風を緩衝させる為の障壁を設け壕内部を猛爆から防御したものであった。完成したのは、幅1.5m、高さ2.1mの洞窟で、もし一列に並べれば、370kmもの長さになる。
15センチ砲までも地下に格納され、レールで移動できるようにされた。合計5500人もの収容能力のある病院も洞窟内に作られた。昭和20年に入ってからも、猛爆撃が続いたが、地下要塞内では、ほとんど被害を受けなくなった。
マッカーサーの参謀達は、「現有勢力で、このような堅固な敵陣地をどうしたら、占領できるか、見当がつかない」
と投げ出した。マッカーサーは「そんな堅固な所は、占領しないことにしようじゃないか」と言い、空爆を続けるだけ
で、迂回して侵攻を続けたのである。
5.敗戦後のご奉公
昭和20年8月16日、今村は電報で受け取った終戦の詔書を、部隊長ら約60名に読んで聞かせ、別辞を述べた。
諸君よ、どうか部下の若人たちが、失望、落胆しないよう導 いてくれ給え。7万の将兵が汗とあぶらとでこのよう
な地下要塞を建設し、原始密林を拓いて7千町歩の自活農園までつくった。この経験、この自信を終始忘れずに祖国の
復興、各自の発展に活用するよう促してもらいたい。 敗戦のどさくさで、耕地のことなど忘れていた将兵に、すかさず今村から新しい指令が出た。
ラバウル将兵は今後も現地自活を続け、将来日本が賠償すべき金額を幾分なりとも軽減することをはかる。これは我々
の外地における最後のご奉公である。 今更、自活でもあるまい、という気持ちもあったが、黙々と畑に立つ今村の姿を見ては、誰も何も言えなかった。
6.祖国の復興に役立つ社会人とするために
そのうちに、日本政府の海外部隊引き揚げの案が、ラジオのニュースで伝わってきた。ラバウル部隊の引き揚げ完了は、
なんと3年半後の昭和24年春になるという。 この3年半を兵士らの教育に使おうと今村は考えた。規律ある生活を維持するためには、目標が必要である。また帰国
後も生計を立て、祖国の復興に役立つ社会人となってもらうためには、兵士たちの知識、教養面の低さが障害になると考
えた。兵の多くは小学校卒であり、差し当たり中学程度の学識を与える事を目標にした。
軍の中の教職経験者を集めて、英語や数学などの教師とし、教科書も作成させた。和歌や俳句、漢詩などの教養講座も
設けた。さらに「かがみ」という謄写版刷り60頁もの雑誌を発行し、将兵の創作した小説や和歌、俳句、世界情勢解説
や英語講座などを掲載した。 当時、将兵たちはオーストラリア軍の捕虜となり、無報酬で作業をさせられていた。これは明確な国際法違反なのだが、
将兵たちは不満も忘れて、作業の合間に教科書や雑誌に読みふけった。 海の外(と)の陸(くが)に小島に残る民の上安かれとただ祈るなり海外に残された居留民や将兵らの安危を一心に気
づかわれた昭和天皇の御歌であるが、これはまた肉親の無事の帰還をただに祈る国民の気持ちでもあった。今村は、7万
人の将として、自らその祈りに答えていたのである。