榊原鍵吉







直心影流竹刀稽古


榊原鍵吉は天保元年(1830年)、江戸麻布広尾に生れた。父益太郎は八十石の直参であった。若年の頃は文武に優れていた。榊原家は初代友興から

代々御徒、御留守与力、御広敷添番、と役職につき、六代目友就は御蔵奉行に栄進した。友就は人を疑うことを知らない好人物であったため、悪人の

謀書謀判にだまされて米金を渡し、落度によって小普請組にいれられる。九代目の益太郎は才能はあったが、無役の御家人暮らしに先の希望を失い、

女遊びにのめりこむ。鍵吉の母が病死する前に妾を二人囲っていた。鍵吉が十三歳の冬、母が亡くなり広尾の屋敷をひきはらい、下谷根岸へ転居する

。彼は七人兄弟の長男として、借金取りに追いかけられている父に替わって、家庭の雑用と弟たちの面倒をみつつ、剣術修行に励んだ。彼はその年、

麻布狸穴の直心影流男谷信友の道場に入門していた。根岸へ転居後は、道場へ通うのに片道四里もあって、苦労はなお嵩むことになったが、一日も

休むことなく修行に励んだ。

当時、男谷精一郎信友は江戸随一の力量といわれていた。鍵吉は入門後、余人に優れた才能を現し、十九歳で免許皆伝となった。 男谷道場では他

流試合を禁じないのみか、むしろ奨励していた。

当時は木刀をとって素面素籠手でなけれは他試合を行ってはいけないなどと、できるだけ同門のうちに安住していため、閉鎖的な方針をとる流派が多

かった。負ければ自流の恥辱となるというような、狭苦しい考えを持っていては今後剣術は進展しないと、男谷は考えたのである。鍵吉は男谷道場でど

のような稽古をしたのであろうか。現在の剣道とは稽古量において比較にならなかったのは確かである。毎日稽古して、一日の稽古時間は四刻(八時

間)というのが、普通であったといれている。直心影流の薪割り稽古というのは、当時有名であった。竹刀のうちこみが、薪を割るときのように全力をふり

絞って行うので、まともに打たれると面金が凹むのである。鍵吉たちは腕を鍛えるために振り棒というものを振った。長さが六尺で、重さが三貫匁

(11.2s)である。柄の部分の長さがどれほどであったかは分らないが、刀の柄と同じ七、八寸であれば、現代の人間ではまず振れるものではなかろう。

旧関東軍の将校たちが使った振り棒を見たことがある。中村流八方斬抜刀道宗家、中村泰三郎師範が所持しておられるものであるが、赤樫で一貫匁

である。これを振れる者は、そうとう剣道で手首、足腰を鍛えた者である。ゆっくりと上下左右に振るのが精一杯で、宙に止めることはどうしても出来ない

。止めようとすれば、手首を痛めると思われる。それを毎日そろそろと振るだけで、体にすごいカが湧きでるといわれている。せいぜい三百匁の日本刀

を振るときは、紙のように軽く思えるのである。三貫匁の振り棒とはどのようなものか、おそらく見ただけで辟易するに違いない。三貫匁の棒を振ると遠

心カがかかり、手もとにかかるカは六培といわれる。鍵吉はその棒を百回、千回、二千回と振ったというが、どれほどの体力があったのか想像もできな

い。腕力だけで振れば肩が抜けるので、気合い、気力で振ったといわれているが、恐ろしいものである。鍵吉の上膊部は、荒稽古によって腕回りが五十

五センチもあったといわれるが、それほどの太い腕は現代のプロレスラーにもめったに見られないものであろう。後年、鍵吉の弟子の山田次郎吉が、師

の用いていた十五貫の振り棒を、二度振って気絶し、数日後に振り慣らしたといい伝えられている。そこまでやれば、人間離れしていると考えるよりほか

はない。そのような荒稽古で腕力をつけた者同士が、直心影流独得の頑丈な竹刀で打ち合うため、まともに打たれれば面金が曲がってしまう。

小手を打たれ、骨に疼きが残り、三日ほどは水で冷やしきりにして、夜も眠れなかったという話が残っているが、面を打たれれば気が遠くなるなど、珍し

くもなかったことであるらしい。鍵吉は、面を打たれても堪えないように平生から柱に頭を打ちつけて鍛えていた。繰り返し打ちつけているうちに、しだい

にくたぴれてくると、両手で柱をかかえてやったものであるという。これを頭を棄てるというのである。頭を棄てる訓練を重ねる内に、特製の頑強な竹刀で

どれほど激しく頭を打たれても、脳震盪を起こさないようになる。頭を棄てるうちに、幾度も気絶をする。ひるまず繰り返せば、ついに柱が凹んでくる。

そうなって始めて一人前といわれたものであるらしい。明治期になって来日したベルツ博士は、剣術は脳を痛めるといったが、このような訓練を眼にす

れば、そういう感想を抱いても当然である。当時の稽古は体を極限まで傷めつけるのが通例であった。道場稽古が真剣勝負に役立つためには、体力を

消耗しつくすまで鍛錬することが、必要であった。十九歳で免許皆伝となったとき、鍵吉は師に贈る礼物の壱両を待ちあわせず、師と先輩をもてなす祝

宴をはるための費用もなかった。男谷は鍵吉の窮状を知っていたので、免許皆伝披露の費用一切を、自ら支払ってやった。

安政二年(1855年)に、幕府は男谷信友の進言を入れ、講武所を設置した。徳川家茂が将軍職につくと軍制の改革が実施された。家康以来変ることの

なかった陣立てが、歩、騎、砲の三軍に編成し直され、将軍の近衛となった。歩・騎両隊の用いる兵器は剣、槍であるため、講武所での武芸稽古は盛

んに行われるようになった。男谷信友は、御徒頭千石から御先手頭千五百石に栄進する。

同年二月に講武所師範方十一人が選はれた。田宮流・戸田八郎右衛門、男谷道場師範代・本目鑓次郎、鹿島神伝直神陰流・今堀千五百蔵、心形刀

流・松下誠一郎、同流三橋虎蔵、忠弥派一刀流近藤弥之助、直心影流・榊原鍵吉、北辰一刀流・井上八郎、神道無念流・藤田泰一郎、心形刀流・伊庭

軍兵衛、柳剛流・松平主税之助。

何れも錚々たる顔ぷれであった。八十石小普請組の父には、鍵吉の初出仕に馬と槍ひとすじをそなえ、馬丁を雇う金子が調達できず、師匠の信友がそ

れを与えた。二十六歳の鍵吉は、教授方手当として百俵十人扶持を得て、勝麟太郎の姉の娘お高を妻にむかえる。さらに将軍身辺の警護を行う奥詰

を仰せつけられた。剣士として脂ののりかけた上昇期の鍵吉は、毎日どのような荒稽古を続けていたのであろうか。道場の床に大豆を敷きつめ、その

上で封かり稽古をしたとか、五日間昼夜ぷっ続けの立ちきり稽古をしたとか、さまざまのいい伝えがある。立ちきり稽古というのは、どのようなものであっ

たのか。

明治二十年代に警視庁でそれを行った、高野佐三郎範士の述懐によれば、朝の六時から翌朝の六時まで一昼夜の立ちきりで、そのあと一週間は疲労

が抜けなかったそうである。午前六時から稽古を始めると、助教クラスの者が大勢おしかけてきて、高野氏を途中で腰が立たないようにしてやろうと、列

をつくって稽古を申しこんでくる。相手になって稽古を続ける内、夜の十二時過ぎになると感覚が鈍ってしまい、相手に投げ飛ばされ、ぶっと飛ばされる

ような目にあわされる。午前二時頃になると辛苦は絶頂に至り、壁際に竹刀を立ててたたずんでいると、無理に引き出され、お突きを浴びる。

鮒が荒波に会ったようにふらふらしつつ暁を待つ。夜があけ、一番鶏が啼き始めると、ふしぎに最初の元気に回復するものだそうである。朝になると意

識がはっきりしてきて、夜中にひどい目にあわされた相手を引っぱりだし、仕返しをするようになる。一昼夜の稽古の間におかゆを三度食べ、厠に三度

ゆく。その稽古の後一週間は元の体に回復せず、高いぴきで眠っていても頭は眠っていないで、竹刀をもって戦っている夢ばかり見るのだそうである。

血の色をした小便が、やはり一週間は続くという。一昼夜の立ちきり稽古でその状態であるから、それが四、五日も続くとなると、常人では耐えられず死

ぬのではないか。文久二年(1862年)男谷信友は御旗奉行、酉丸御留守居となり、禄高三千石を頂戴する。この年、彼は直心流十四代を鍵吉に承継さ

せた。

文久三年春、将軍家茂は三千人の供奉を従え、上洛する。京都には攘夷決行を呼号する長州藩の庇護をうけ、諸国から集まった千余人の過激浪士

が、暗殺、放火を日常のこととしていた。無警察状態となっている京都に向かう行列に鍵吉は加わる。彼は、飾りけのない性質を、将軍に愛されていた

。家茂は事に応じ、「鍵吉はいずれにおるか」と、君側に呼ぶほどである。鍵吉は家茂に命ぜられ、槍術の名人高橋泥舟と試合をしたことがあった。

刀と長柄の武器とでは、間合いにおいて刀が不利である。槍は刀よりも五尺は間合いがひろい。そのため刀をもつ方は、槍に向かえば七分三分で不利

であるといわれていた。容易く槍の間合いの内へ踏み込めないからである。槍の働きには、切り、はね、突きがある。上からうち切って突き、下からはね

上げて突く、千変万化の槍先をかわさなければ、相手の体に触れることができない。天下の名人といわれた泥舟を相手に立ち会った鍵吉は、上段の構

えで槍先をかわして手元に踏み込み、見事に面一本をとったといわれている。よほどの手練でなけれは、泥舟の槍先をかわすことはできなかったに違

いない。強敵に勝って名を上げた鍵吉は、京都滞在中に、二条城の庭園で新陰流の遣い手、天野将曹と試合を行った。新規お召抱えの天野は、左上

段の構えをみせた。左上段は鍵吉の得意技であった。鍵吉はかまわず相上段にとり、たがいに睨み合う。新陰流では上段を雷刀と呼ぷ。どこに落ちる

か解らない太刀筋であるためである。五間の立ちあい間合いから、二人は軽やかな足どりで前へ出た。鍵吉は天野の打ちこみを先に受けたが、竜尾

の技で受け流して後の先の面をとった。「参った」と敗北を認めるはずの天野が、無言で立ち向かってきた。将軍家茂の面前で、新参の身としてなんと

か勝利を得たいのであろう。今度は鍵吉は切先下りの平青眼に構えた。天野が前にでてきたとたん、鍵吉は彼の喉を突き抜くような諸手突きを見舞っ

た。さすがに強情我慢の天野も、仰向けに芝生に転倒し、完敗を認めざるを得なかった。後に天野はいう。「榊原の打ちこみは、面でも小手でも、ぐわん

と鉄棒でうちすえるような、もの凄さであった」

翌元治元年(1864年)鍵吉は男谷信友に薦められ、車坂の自邸に道場を設けた。三十五歳で、技量の絶頂に立っていた彼の、順風満帆の時期は、長く

は続かなかった。同年七月十六日、男谷信友は享年六十七歳で没した。慶応二年(1866年)七月二十日、将軍家茂が大坂城内に薨去し、九月六日に

遺骸が江戸へ戻って。時代は急速に変わりつつあった。西欧諸国の新知識が導入され、軍艦、大砲、銃器がおぴただしく購入される。幕府をはじめ全

国諸藩が幕末の数年間で、外国から輸入した小銃は、二十万挺とも五十万挺ともいわれている。幕府にもイギリス、フランスの武官が教官として傭われ

、兵制は洋式銃隊をとりいれる。この年、講武所は廃止され陸軍所と名称を変え、練兵場となった。十一月十八日の廃止の日に、講武所師範役はあら

たに遊撃隊の隊頭に任命されたが、鍵吉は辞退する。「世のなかは大砲と鉄砲がはばをきかすようになったんだ。今更刀をもちだして戦をすることもな

かろう。俺は用のない身分になったんだから、若隠居をさせてもらおう」彼は剣の時代が既に過ぎ去ったことを自覚していた。彼は妻のお高にいう。「考

えてみりゃ、文久二年に二の丸留守居格布衣になり、三百俵を頂戴したのが俺の全盛のときだったなあ。俺のお仕えした殿様は家茂公だ。つまり俺は

家茂公の遺臣というわけよ。慶喜公の家来にゃならねえぜ」鍵吉は諸役を受けず、車坂の道場でひたすら弟子の訓育にあたっていた。道場の正面上段

の間には、「征夷大将軍家茂公」と大書した額と、木像を祀り、出入りする者には必ず拝礼させる。礼を忘れた者には破れ鐘のような声で叱りつけた。

慶応四年、、三十九歳の鍵吉は江戸にしかけてきた薩長勢を無視して、普段とかわりのない暮らしを続けていた。錦切れを肩につけた薩長の兵士が道

場を覗きにくることもあるが、鍵吉の険しい眼光をはばかって、じきに立ち去ってゆく。彼の名声を知らない者はいなかった。道場の敷居をまたいだ者は

、すべて家茂の木像と額を拝礼せねばならず、礼を怠れば生きて帰さないという鍵吉の気組は、戦勝に驕った薩長勢にも理解できるものであった鍵吉

は上野山内にたてこもった彰義隊に参加する気はない。大義名分を心得ているからであった。だが、戦がおこれば輪王寺宮を奉じ守護し奉るつもりで

いた。将軍が大政奉還し水戸に蟄居している今、自分が身命を投げうって守護するのは、上野の宮家のみあると考えていた。

五月十五日の朝、豪雨のなかで銃砲声が轟き戦闘が始まると、鍵吉は黒地の陣羽織に朱鞘の刀を差し、手に槍たずさえて家を出た。彼は上野御本坊

公事所へ到着すると、輪王寺宮に三度くりかえし言上する。「このあたりはまもなく戦場となりまするゆえ、ただちにお立ちのきあそばしますよう」 宮は

豪雨をおして立ちのかれる。鍵吉は根岸へ向かい宮を背に負い三河島まで落ちのびた。

明治維新の後、宮は北白川能久親王となられたが、鍵吉を御前に召され、懐旧談をされたことがある。「鍵吉に背負われたときは、松の大木につかま

ったようであった」と仰せられたという。維新後、鍵吉は第十六代将軍となるはずであった田安亀之助に呼ばれ、静岡に出向いた。与えられた役職は大

番頭であった。彼は病気がちな妻子を江戸に置き、単身で静岡に向かった。静岡では本通り九丁目の禅宗浄元寺に寄宿する。浄元寺は安倍川に近い

静岡の西のはずれであった。寺の裏手は見渡すかぎりの田圃で、夏は蛙が騒がしく鳴いていた。鍵吉は寺に到着すると、毎朝寺の庭ですさまじい気合

いとともに樫の八角棒を振り、稽古をするので、たちまち近所で知らぬ者がいない存在となった。彼は、久能山に本営を置いた、剣術の達人ぞろいの新

番組に加わり、駿府城下の警衛に任じた。新番組には中条金之助、松岡万のようなあばれ者がそろっていた。彼らは旧徳川領の住民でありながら、官

軍に迎合し江戸に攻めこんだ地元の神主たちの結成した赤心隊、報国隊員が静岡に帰還してくると、その幹部を襲撃暗殺する騒動をおこす。明治二年

五月未に、鍵吉の配下の木暮半次郎という若侍が、清水次郎長の女房お蝶を斬殺した。彼女は二代目お蝶といわれ、後妻であるが先妻の名を継いだ

のである。彼女は以前江戸で芸者をしており、当時は半次郎と馴染をかさねた仲であった。半次郎が維新後静岡にくると彼女が次郎長の女房になって

いたので、金の無心にゆく。お蝶はかつての羽振りも夢となった旧直参を相手にせず、激昂した半次郎が思わず刀を扱き、斬りすてた。

半次郎は近所の寺院へ逃げこむが、次郎長の子分である田中の啓次郎、大政、仙右衛門らに追い出され、田園の畦道で挟み討ちにされ、逃げ場を失

う。だが半次郎は腕が立ち、やくざどもを寄せつけない。石を額に受けひるんだ隙に腹を槍で突かれても、一刀両断してあばれた。半次郎はついに落命

したので、騒動が大きくなった。新番組の剣客たちが次郎長一家を叩き漬しに、久能山から襲ってくるという噂が立った。子分たちが二百数十人、喧嘩

支度で集まったが、次郎長は彼らを解散させ、単身で久能山へ出向き、鍵吉に隊士斬殺の件を詫びた。鍵吉はそらとぼけて答えた。「さような名の者は

、拙者はいっこうに存ぜぬが」その一言で大喧嘩がもちあがるところを、無事に落着した。鍵吉の威厳には、新番組のあばれ者たちも一目を置いていた

わけであった。

明治四年、廃藩置県となり、四十二歳の鍵吉は東京に戻った。徳川の禄を離れて後、貯えも使い果たし、貧窮の日が続くようになった。新政府から大警

部として出仕せよとの内命を受けたが、応じないで弟の大沢鉄三郎を推薦する。二君に仕えずという観念が、鍵吉の脳裡を離れなかったからである。明

治五年春、彼は貧窮に耐えかね、車坂の道場を売却する決心をした。その噂がひろまると、侠客新門辰五郎がやってきて、黙って三十円を置いていっ

た。続いて官軍の咎めを恐れず彰義隊士の遺骸を埋葬して名をあげた、江戸の三幸こと三河屋幸三郎と名倉弥一が訪ねてきた。幸三郎は表向きは飾

物問屋、名倉は千住の骨接ぎ医者であったが、どちらも裏では世間に聞えた侠客である。二人は鍵吉に撃剣興行をすすめた。「なんだと、剣術を見世

物にするのか」鍵吉は聞きとがめたが、幸三郎たちは説得する。維新後剣術は衰退するばかりで、尚武の気風のすたる世のなかで、剣術の神髄を一

般に公開するのは意義のあることである。かつて剣術道場での本格的な試合を見る機会に恵まれなかった市民たちは、争って見物にくるにちがいない

。そうすれば木戸銭は入るし、鍵吉はじめ門弟たちの懐も潤うわけである。静岡での貧乏暮らしに耐えかねて、東京へ引き上げてくる旧旗本たちの内、

昔榊原道場へ通ったことのある連中が、鍵吉のもとに援助を求めてくる。道場にはそのようた食客が常時寝泊まりしていた。剣術の見世物で彼らの生

活が楽になれば、このうえのことはない「そいつは面白えな。やってみるか」

さっそく榊原道場前の傍に幌幕を張って、弟子が法螺貝を吹いて客を集める。木戸銭は一朱と高いが、東京じゅうから客が押し寄せてきた。平民たちは

、講武所師範役として雷名を洩れ聞いたたことのある榊原鍵吉をはじめ、多くの剣客を見ることができるというので、珍しがって互いに吹聴しあい、日が

経つにつれ客は増えるばかりであった。撃剣興行の予想外の盛況をみて、吉原大門の茶屋の主人、僧侶などが金主になりたいと、資金援助を申し入

れてくる。話はまとまり、大規模な興行を行うことになり、場所は浅草左衛門河岸の原と決まった。原の中央に周囲二十五間を借用し、試合の場所は盛

土をして外囲いは竹矢来をむすび、木戸の前には高札をたてる。蓋を開けない内から評判が高く、四月十五日に初日をだすと、客が雲霞のように押し

寄せ、矢来を踏み潰す騒ぎとなった。

翌日には三十五間に矢来を結び直すが、それでも客を収容しきれない。連日客留めが続き、小屋の前に掛け茶屋ができ、三枚つづきの錦絵ができる

。回向院大相撲の春場所は、あおりをくらって不入りを嘆く有様となった。榊原道場の弟子であるイギリス公使館の書記官トーマス・マクラチ・ジャンク・ピ

ンスも出場した。呼出しは吉原のたいこもち桜川正孝、土肥露八である。市中の湯屋、髪床では撃剣会の噂ばかりが聞かれる盛況をみて、東京市中に

千葉撃剣会、斉藤弥九郎撃剣会など、二十一の興行会が出現した。

鍵吉は左衛門河岸での興行が大好評であったのに、商売にはしたくないとそののち二度と撃剣会を行わなかった。彼の生活が潤ったのも束の間で、ま

た貧窮に苦しめられるようになる。新門辰五郎と名倉弥一は、鍵吉の屋敷内へ五軒の長屋を建て、家賃で生計をたてさせようとした。一軒の家賃は月

一円であるが、鍵吉は毎月五円の家賃のうちから二円五十銭を弥一に手渡さなくては承知しない。弥一は逃げまわりながらも、それを受けとらざるをえ

なかった。鍵吉の気性を愛する後援者たちは、彼の生活をなんとか立て直そう智恵をしぼった。日本橋の貴原店の寄席、木原亭の主人が、道場の師

範席を高座に使い、榊原亭という寄席をひらかせた。人気のある芸人を次々と寄越し、新門辰五郎、三河屋が客を送ってよこすが、いまひとつ人気が

盛りあがらない。帰ってゆく客に、袴をつけた鍵吉が愛想のつもりで、「明日の晩もまた来るのじゃぞ」というのが、不人気の原因であった。次に寄席をや

め、居酒屋を始めた。これは思いのほかの繁昌であったが、鍵吉をはじめ門人たちが底抜けの酒豪で呑みつぷし、ついに店仕舞いをすることになる。

明治五年に廃刀令がでて、大礼服着用者と軍人、警官以外は帯刀を禁じられた。鍵吉は長さ四尺ほどの桜材を五角に削り、柄にあたる部分に鈎をつ

け、「倭杖]と称する。ほかに木を削って扇型とし、鉄扇のかわりにして、それに「頑固扇」と名づけた。外出の際、そのふたつを大小のかわりに腰に差す

のである。日が経つにつれ、榊原道場での剣術稽古は旧態に復するようになり、東京名物に数えられる。ドイツの医学博士ベルツ、陸軍戸山学枚撃剣

教師ウイラレー、キールも入門した。明治十年、北白川宮家、伏見宮家に剣術指南に通うようになる。翌十一年八月には、明治天皇が上野公園に御臨

辛の際、警視庁主催の撃剣大会があり、鍵吉は審判役を引き受けた。明治十九年十一月十日、鍵吉は宮内次官からの達示により、伏見宮紀尾井町

邸の庭前で、鉢試しをおこなった。

明治天皇の天覧のもとでの晴の行事である。鉢試しというのは、鋼鉄の兜を日本刀で斬ることをいう。戦国時代には刃の分厚い、刃渡り四尺を超す野

太刀で、兜を両断した記録はあるが、刃渡り二尺余の打刀で斬った前例は聞いたことがない。内示を受けるなり鍵吉は頭形の兜で試してみたが、刀を

二本曲げた。とても刃のたつ代物ではない。天覧の場で斬るのは、明珍鍛え桃形兜である。

中央が突起し左右に急角度に傾斜のついた鋼の面に、刃をうちこむのは、怪力をうたわれた鍵吉にしても、無理であると思われた。同日午後二時、明

治天皇は侍従長、宮内次官以下諸官を従え、午後二時過ぎ行幸された。便殿において、貞愛親王、同妃と参集の皇族、大臣に謁を賜ったのち、庭前

に出御された。弓術競射が行われた後、鉢試しの番がきた。鍵吉はその日の朝、刀屋が届けてくれた堅牢な胴田貫二尺二寸の一刀を携えていた。

最初に名剣士上田美忠がうやうやしく聖上に拝礼し、兜に向かい合う。烈帛の気合いとともに打ち下ろした刀は、跳ね返り彼は宙に泳いでかろうじて踏

みとどまる。つづいて立身流居合の達人、逸見宗助が試みたが、やはり刀身は跳ね返され、彼は仰向けに転倒した。最後に立った鍵吉は、兜に向かう

と刀の棟が背筋に付くまでふりかぷり、一気にうちおろす。彼の胴田貫の刀身は、兜の八幡座にくい込んでいた。三寸五分の深さまで斬り込んでいたの

である。

鍵吉は明治二十七年九月十一日、中風を発して、侍としての意地をたてつらぬいた生涯をおえた。



津本 陽 「日本剣客列伝」より