我が国の日本刀の最大の特徴は湾曲した姿と鎬造りにあります。その姿は大陸から招来された直刀が発達して、平安時代中期頃に出現したといわれ

ています。では、湾刀の出現を平安時代中期とする根拠とは何でしょうか。それは平将門、藤原純友の承平・天慶の乱(935〜940)がひとつの契機とされ

ています。

有力な理由にあげられるものは、徒歩戦から騎馬戦への変換があっただろうことです。直刀は徒歩で突くのには都合がよいが、馬上から切りおろしたり

横に薙ぐためには不都合であって、実戦を重ねるうちに刀身に反りをつけた方が有利であることを知り得たこと。さらに切断に鋭利さを加えるためには

平造りよりも刃先に近く稜線を設けていた切刃造を発達させた鎬造りを併せて採用したことが、日本刀の誕生とされています。

承平・天慶の乱は、平安時代を通じて最大の反乱であり、あしかけ六年にわたる大乱は武器・武具の発達をおおいにうながしたことと思われます。我が

国において、剣術を始めとする武術が体系化され、整理されたのは、戦国時代末期であるといわれています。それから江戸時代にかけて発展し、江戸

中期には一旦形骸化、衰退しましたが、幕末には再び盛んになり、空前の剣術ブームとでもいえる時代が到来しました。

ここでは、各時代における武術の、そして武芸者の位置付けはどうだったのかを見てみましょう。

「戦国末期から江戸初期」

戦国時代末期から江戸初期にかけては、源平合戦の頃から起こってきたさまざまな闘法が、武術として整理され、さまざまな剣豪たちがいろいろな流派

を起こした時代です。

それ以前にも、東国には鹿島神流、香取天真正伝神道流、西国には京流といった流派が存在しましたが、戦闘様式の変化に伴い、さまざまな流派が

生まれ、なおかつ芸道化が進んだのがこの時代と言えます。

この時代の武術は、宮本武蔵の「五輪書」の言い方に倣えば、軍略などの「大なる兵法」と、総合武術たる「小なる兵法」、すなわち剣術、抜刀術、柔術

、槍術などがすべて含まれていました。

「戦国末期から江戸初期の武芸者」

この時代の武芸者としての一つの典型が、塚原卜伝です。

鹿島神宮座主の子として生まれた彼は、鹿島神流・天真正伝神道流を極め、「一ノ太刀」を会得した後、廻国修行に出ます。時に17才でした。

このころの廻国修行、つまり武者修行というものは、単に武芸の修行のみならず、野に体を横たえ、雨露をしのがず、寒さは衣類のみで耐え、人の往来

しないところを一人で旅するという、まさに強靭な心身を必要とするものでした。厳しい環境に身を置き、いくつかの試合(無論、命のやり取りをするもの

です)を経て、武芸者たちは剣名を轟かせるようになるのです。

剣名が聞こえるようになると、卜伝は、猩々緋(しょうじょうひ)の羽織 (赤は貴人の着るものとされていたため、一般には敬遠されていました)を着て、廻

国の際には大名のように大勢の伴を従えて行列するようになりました。

このように、大抵の武芸者は、名が通ってくると人目をひく恰好をするようになります。「我こそは××なり」と明らかにするためです。宮本武蔵がいっさい

入浴せず、近くに寄ると悪臭を放つようであったとされるのも、天流の斎藤伝鬼坊が、「伝鬼坊」などという名を名乗って、羽毛で飾った装束を着て歩い

たのも、この一例でしょう。よほどの自信がないと出来ないことでもあります。

また、卜伝は、北畠具教、足利義輝などの庇護を受け、彼らに印可(いんか)(免許)を与えました。

このように、大名や土地の有力者の庇護を受け、代わりに庇護者やその家来衆に武術を教えて印可や目録をさずけたり、戦の際に働いたりすることは

、当時の武芸者としてはごく普通のことでした。パトロンやスポンサーの存在は、主人がいない武芸者の生計(たつき)の道であるばかりでなく、一種の看

板の役目を果たすものといえます。なお、卜伝の場合でも明らかなように、庇護者は一人とは限りません。放浪する場合は、土地ごとに庇護者がつくこと

が普通です。

無論、武芸者が武芸によって認められ、仕官をする場合もあります。この場合は、主と家来の関係になります。もはや勝手な廻国修行は出来ませんし、

いろいろと窮屈な面もあるでしょうが、自らの理解者である領主の元で存分に腕を振るえる上に、安定した生活が得られます。

ただし、武芸者の扶持はそれほど高くありませんでした。例えば徳川将軍家の剣術指南役である柳生宗矩は1万石の扶持を得ましたが、これは柳生家

はもともと地方豪族で、召し抱えられてからのさまざまな功績を合わせたからです。純粋に兵法だけで得られる扶持としては、同じく剣術指南役の小野

次郎右衛門が300石、というのが参考になるでしょう。宮本武蔵が細川家に召し抱えられたときは実米300石、知行地に換算すると大体750石でした。こ

れがほぼ最高の水準です。

さて、武芸者の本道たる試合についてです。他流試合を好む流派、好まない流派とありますが、命を掛けた試合も含めて、基本的には他流との交流は

盛んに行われていました。

廻国修行をしている武芸者は、新たに着いた土地の道場に出かけていったり、あるいは市中に看板を立てて、立ち会いを望みました。庇護者や領主に

よって、立ち会いがセッティングされる場合もしばしばあります。宮本武蔵と佐々木巌流(小次郎)の立ち会いも、このようなものでした。

「江戸中期」

江戸中期は、武芸にとっての冬の時代でした。

確かに武士にとって、武芸は表芸ではありますが、島原の乱を最後に戦乱が遠くなっていくにつれ、武芸を学ばずとも武士は勤まるようになっていきまし

た。

また、武芸自身も、型稽古の繰り返しによる形骸化、芸道化が更に進み、開祖当時は平易であった理合(理論)を、難解な言葉で権威付けをする方向に

向かっていきました。剣術の出来よりも付け届けの量が目録や免許を左右する、という道場すら珍しくはありません。

一方、武術をより高めようという立場に立って、さまざまな努力をしたものもいました。開祖当時からの激烈な稽古でも止めずに残った弟子だけを徹底

的に鍛えあげたり、多少力量が劣っていても、ていねいに指導してある程度の実力を付けさせたりといった地道な努力をする武芸者たちもいました。

この頃の武術は、ほぼ分化が終わり、総合武術というのはむしろ少なくなってきました。また、太刀打ちの術にしても甲冑武者を相手にしたものから、平

服の武者を相手にするものへと変化していきました。盛んな武術は圧倒的に剣術です。剣術では、竹刀、面小手の整備が進み、韜袍稽古(とうほう)稽古

(竹刀での実際の打ち合いをする稽古)が盛んになりました。

「江戸中期の武芸者」

武芸者といっても、れっきとした士分、つまり旗本・御家人であったり、いずれの藩の藩士であるものは、普段の仕事の合間に道場に通ったり、自宅で練

習したりすることになります。

藩士であって江戸詰めならば、武芸者が週に1回ほど藩邸に来るときに稽古することになるでしょうし、許可を受けて町道場に行くことも出来ます。国許

には藩の武術指南役がいるか、町道場があります。

武術指南役とは、藩に抱えられ、扶持米を貰う立場のものです。道場を開いていることが普通です。ただし、指南役を特に置かない藩もありますし、また

滅多なことがない限り、今の指南役をクビにして新たに召し抱えることもありません。

藩の領内に町道場を開くときには、一応藩に届けることになります。藩に武術指南役がいない場合でも、このような町道場は藩公認であり、藩士が来る

ことが考えられます。ただ、扶持米を藩からいただいているわけではないので、身分は保証されていません。

武術のために生きるという純然たる武芸者の立場は、先程述べたように、藩に扶持を貰って剣術指南役になる以外には、 (身分上は)浪人となってどこ

かの町道場に属すのが普通です。師範代ともなれば、なにがしかの給金は得られますし、あるいは自分が道場主であることもあります。

武芸者が道場主であるなら、大身旗本や諸藩から、屋敷への出稽古を仰せ付かる場合もあります。このときは、週に1回ほど屋敷に行き、数時間稽古

を行います。道場主が弟子を名代とする場合もあり、普通は、名代が報酬のいくらかをもらいます。出稽古に行く先の藩士や家士の何人かが、稽古の

日以外に、通いで道場に来るのが普通です。

さきほども触れたとおり、武芸者は一介の浪人にしかすぎません。もちろん、仕官を望むことは出来ますが、武芸が達者であるからといって、それが必

ずしもプラスになるとは限りません。平時には、武芸者よりも能吏の方が求められているのです。

廻国(かいこく)修行といった習慣はめっきり減りましたが、まったくなくなったわけではありません。戦国末期ほど過酷な修行は行われなくなりましたが、

各地の道場をまわり、気に入った道場には数か月逗留する、というのは、(仕官をしていない)武芸者としてはふつうのことです。

他流試合は、めっきり数が減りました。というのは、武芸が芸道化し、各流派がその面目を考えるようになると、他流試合に敗れるというのは非常に不

面目なことであり、それは避けなければならないからです。それに、時代が落ち着いてくるにつれ、立て札などを立てて、町中で立ち会いを望むのは治

安の乱れにつながるとして敬遠されるようになりました。

しかし、道場破りなどはまだありますし、流儀の面目などよりも自らの武術を極めんとするものも多くいて、命のやり取りを含む試合というのも、まったくな

くなったわけではありません。武芸の試合によって死者が出ても、殺人とはされなかったため、自らの境地を確かめるため、真剣勝負を挑む武芸者は

決して少なくなかったのです。

「江戸後期」

江戸時代後期には、衰退していた剣術が再び隆盛となりました。古流に加えていくつかの新流派が生まれ、道場は大勢の人で賑わいました。

武芸はもはや武士だけのものではなく、郷士や町民たちも、町道場に通ったり、出張稽古を願ったりしていました。江戸においては、町道場の試合の様

子が一般市民の間でも話題になり、瓦版のネタになったりしました。

千葉周作は日本橋品川町に玄武館道場を開き、北辰一刀流という流派を立てた。3年後、神田お玉ガ池に道場を移して大いに繁盛させ、位の桃井春

蔵、力の斎藤弥九郎らの道場と並んで、技の千葉と呼ばれ、江戸の三大道場と称された。やがて水戸藩の要請を受け、弘道館の剣術師範として3百石

を給されたことにともない、二人の息子を藩士として出仕させた。安政2(1855)年12月10日(13日説もあり)、江戸にて病没。周作の門人は約3千人

ともいわれ、その代表的な人物として玄武館道場からは有村次左衛門、清河八郎、坂本龍馬らを輩出した。

そして、維新の嵐が吹き荒れる中、これらの武芸を身に付けたものたちが、さまざまな活躍をしていくのです。

「幕末の武芸者」

幕末においても、武芸者の位置はおおむね変わりません。独立の剣客として道場を構えるか、大名や旗本の家臣となって禄を食む(はむ)しかありませ

ん。しかし、町道場は、江戸中期とは比べ物にならないほどの活況を呈しました。また、各藩も武芸者を高く評価し、武芸が単なる芸だけではなく、役に

立つものとして再認識されるようになりました。

特に、郷士や町人といった非武家階級のものにとっては、武術、特に剣術は、武家階級に上がるための手段として考えられていました。薩摩の田中新

兵衛(商家の出)、新選組の近藤勇(郷士)などがこれに当たります。彼らは、時代のうねりの中で武家階級を手に入れようとあがき、そのために若い命を

散らしていきました。

この時代には、再び戦国時代と同じような武者修行が盛んになりました。武者修行では、悪路を歩み、雨露をしのがず、手裏剣をとばして小動物を捕ら

えて飢えをいやすという過酷な生活を行います。そして3年ほどたつと、ようやく他の道場などでほかの武芸者に対して、「少々使える」と名乗れるように

なるのです。

「明治初期」

260年間の長きに渡る江戸時代も終わりを告げ、明治の世になりました。髷まげを切ることが一般化し、社会が急速に西欧化するなか、ついに廃刀令

が施行され、剣術を始めとする武術も旧態なもの、捨て去るべきものとして、急速にすたれていきました。

これを憂えた直心影流の榊原健吉は「撃剣興行」を始めます。これは、剣術の試合をちょうど相撲のように見世物にし、金を稼ぐというものです。撃剣興

行は旧士族、そして刺激に飢えていた東京府民にたちまち受け入れられました。撃剣会は全国に数多くでき、旅回りの一座のように全国を旅して撃剣

を見せるようになりました。それにしても、見世物として剣を振るうというのは一種の剣術の堕落であり、依然として武道にとっては不遇の時代でした。

「明治初期の武芸者」

明治時代の武芸者は、さきほども述べたように、まずは非常に苦しい時代をすごさねばなりませんでした。

維新の時代に幕府の側について闘った、例えば新選組や新徴組、京都見廻組のメンバー、あるいは上野彰義隊、戊辰戦争の生き残りたちは、明治政

府から許されたとはいえ、困窮きわまる生活を強いられました。旧幕臣は静岡の徳川藩70万石に転封され、特に苦しい生活が続きました。

一方、官軍側であっても、役人として官庁に入ることができた一部を除けば、あとは単に士族となり、仕事もなく、しかたなく始めた商売もうまく行かない、

というケースが多くありました。

町道場も、廃刀令に象徴される西欧化政策のあおりを食って、急速にすたれていきました。幕末の頃の隆盛が嘘のように、多くの道場は寂れてしまった

のです。

この頃の武芸は、撃剣興行と警察で、辛うじて生きのびていた恰好になっています。武芸者は、このいずれかに携わるか、ほかの仕事をしつつ、その稼

ぎで辛うじて道場を維持するしかありませんでした。山岡鉄舟のように、明治政府でそれなりの役割を与えられ、さらには困窮する弟子たちに仕事を紹

介したりして、道場を維持して剣術に専念できたのは、非常に幸運であったといえます。

撃剣興行は、腕に自信があり、かつ政府によい感情を持っていない人間が集う場所となりました。最も、当時の士族のほとんどは政府に対してよい感情

を持ってはいませんでしたが、撃剣興行はおおむね成功したとはいえ、剣は見世物に流れ、剣の道を極めようとするものがいる場所ではありませんでし

た。  警察も若干の武術が残ってましたが、それが注目され、盛んになるのは明治中期以降になります。

「明治中〜後期

武術にとっての闇の時代に曙光(しょこう)が射したのは、明治10 (1877)年の西南の役(西南戦争)がきっかけです。この事件において、薩摩人に多くいた

示現流および薬丸自顕流の使い手に対抗するため、官軍は腕の立つ士族を集めて抜刀隊を組織し、戦場に送り込みました。これをきっかけに剣術の

有効性が再認識され、警察での剣術の稽古が盛んになります。明治19 (1886)年には、警視庁武道大会が初めて行われました。嘉納治五郎が率いる講

道館の面々が、警視庁の柔術家を下し、「柔道」が警察に採用されるきっかけとなったのもこの大会です。

明治28 (1895)年、武術界に大きな転機が訪れます。前年に起こった日清戦争の影響で剣術などの武術に対する関心が高まっていたなか、京都で内国

博覧会が開かれ、この会場において、武道の振興、発展を目指した「大日本武徳会」が設立されたのです。武徳会は順調に発展を続け、明治39

(1906)年には全国に39の支部を持つ全国組織となりました。そして、武徳会付属の「武術教員養成所」、これを閉鎖し、新たに明治45 (1912)年に作られ

た「武徳学校」は、明治から大正、昭和にかけて、優秀な武道教師を多く輩出しました。ちょうど明治41年に、柔道、剣道が中学校の正課と定められたこ

ともあり、武徳会は大組織に発展していくのです。

「明治中〜後期の武芸者」

士族にとって、廃刀令によって刀が腰に差せなくなったのは非常な衝撃でした。しかし、明治16 (1883)年に、警官が堂々とサーベル(の形をした日本刀

)が差せるように規則が改正されると、警察は一気に士族にとって憧れの場となりましたし、警察も、撃剣が強い士族を多く求めました。警察は旧薩摩の

勢力が強かったため、とくに鹿児島の士族が多く警官として採用されました。

そして、大日本武徳会が結成される頃には、武芸は復興をほぼ果たし、町道場もある程度は安定した地位を保つことができました。道場主は武徳会の

教官となったり、中学校の武道教師となったりもしました。武徳会と警視庁による武術の大会は、全国から武芸者が集い、流派、庇護者、地元、そして

何よりも個人の名誉を背負って闘ったのです。

「大正時代〜終戦」

大正元年(1912年)、各流の粋を集めて大日本帝国剣道形が制定されました。さらに昭和6年(1931年)には必須科目となり、昭和16年(1941年)の国

民学校令が公布されるや公学校5年生以上の男子生徒に対して武道が正科として課せられ、学生剣道もめざましく発展しました。

また、昭和4年(1929年)には天皇のご即位の大礼を祝って天覧武道会が催され、昭和9年には皇太子殿下御誕生奉祝天覧武道大会、昭和15年には

紀元2600年奉祝天覧武道大会などが行われ、剣道の隆盛はその極みに達し、最も普及充実した時期であった。

「戦後〜現在」

第二次世界大戦の敗戦により、昭和21年(1946年)「戦時中、刀剣をいかに兵器として効果的に利用できるかという訓練に使われた事実がある」との理

由から学校剣道は全面的に禁止され、武道の普及振興をしてきた大日本武徳会も解散を命じられ、剣道界はまったく火の消えたような状態となってしま

った。

戦後、連合軍司令部の弾圧により中断せざるを得なかった剣道も、昭和25年(1950年)に日本撓競技連盟が発足し、従来の剣道を母胎に純粋なスポー

ツとして国民体育大会(愛知)で初めて公開競技として行われた。

昭和27年には、しない競技が学校体育の格技教材として採用され、また日米講和条約の発効によって主権が回復するとともに、同年10月に全日本剣

道連盟が結成され、剣道はスポーツとして再出発したのである。

昭和29年(1954年)には、しない競技と剣道を一本化して学校剣道とし、全日本撓競技連盟は解散し、全日本剣道連盟に統合された。

昭和30年(1955年)には日本体育協会への加盟を承認され、同年の第10回国民体育大会からは武道種目として参加することになった。

全日本剣道連盟は、発足とともに剣道界再建のため活発な活動を開始し、長い空白時代を経て、現代剣道は現代社会に即するように修正された。

審判規則、称号段位制度や諸制度の整備が行われた。

昭和28年(1953年)からは、京都武徳殿における剣道祭をはじめ全日本剣道大会、全日本東西対抗大会、全日本都道府県対抗大会などが行われた。

昭和45年(1970年)には、国際剣道連盟が結成され、現在では47の国と地域が加盟している。

スポーツ剣道の普及は必ずしも剣道の文化的伝承と合致していないのではないか、との疑問が持ち上がり、剣道のあり方や目的を明確にすべきである

、との議論が高まりました。それを受けて昭和50年(1975年)3月に「剣道の理念」と「剣道習練の心構え」の誕生をみたのです。

「剣道は剣の理法の習練による人間形成の道である」という「剣道の理念」は、武士道の徳目が剣道習練の要目として受け入れられていた時代から、ス

ポーツとしての剣道を容認した時代を経て、ようやく剣道人に武道としての剣道の指標を示すことになりました。

技術の末に走ることを諫め、精神の修養を重んじ、人格の陶冶に資する剣道習練をいかに進めていくべきか、深く考え、文化の薫り高い剣道の振興を

目指さなければならないと思います。