水 の 巻


兵法二天一流の核心は、水を手本として勝ち方の法を行なうことであるから、『水の巻』として一流の太刀筋を、この巻に書き顕わすもの也。この道は、どこも細やかに心のままには書き分けられない。たとえ言葉は繋がらないといえ、意味はおのずから伝るだろう。この書に書き付けた所は、一事一事一字一字に思案すべし。いい加減に思っては、道の違う事も多いだろう。
兵法の理論において、一人と一人との勝負のように書き付けた所であろうとも、万人と万人との合戦の意味に理解して、大きく見立てることが肝要也。
この道にかぎって、少しだろうと道を見違え、道の迷いがあっては、悪道へ堕ちるものである。この書き付けだけを見て、兵法の神髄に到達することはできない。この書に書き付けてあることを我が身にとって、書き付けを見ると思わず、習うと思わず、物真似をするのではなく、すなわち、自分の心から見出した理論にして、つねにその身になってよくよく工夫しないといけない。



一、兵法の心持の事

兵法の道において、心の持ち方は、平常心に替わることがない。普段の時にも兵法の時にも少しも変わらず、心を広く正しくして、きつく張らず、ゆるく弛まず、心の偏らないように心を真中に置いて、心を静かにゆるがせて、そのゆらぎの一瞬もゆらぎやまないように、よくよく吟味すべし。
静かなる時も心は静かならず、せわしい時も心は速めず、心は身につられず、身は心につられず、心に構えて、身は構えず、心の不足なく、心の余念なく、心もちは弱くとも、心ざしは強くして、心を人に見分けなれないようにして、少身の者は心に全体を残らず知り、大身の者は心に細部をよく知り、大身も少身も心を正しくして、我が身のヒイキをしないように心を持つこと肝要也。
心の内は濁らず広くして、広き所へ知恵を置べき也。知恵も心も、ひたすら磨くことが第一也。天下の優劣を判じ、物事の良悪を知り、種々の技芸を渡り、世間の人に少しもだまされないようにして後、兵法の知恵となるものである。兵法の知恵において、とりわけ違うことがあるもの也。
戦いの場は、万事せわしい時ではあるが、兵法の道理を極め、動きのない心をよく吟味すべし。

一、兵法の身なりの事

身の姿勢は、顔をうつむかず、あおむかず、かたむかず、ゆがめず、目を乱さず、額にシワをよせず、眉間にシワをよせて、目玉を動かないようにして、まばたきをしないように思い、目を少しすくめるようにして、おだやかに見える顔は、鼻筋をまっすぐにして、少しあごを出す感じである。
首は、後の筋をまっすぐに、うなじに力を入れて、肩から全身は一体に感じ、両肩を下げ、背筋を真っ直ぐにして、尻を出さず、ひざから足先まで力を入れて、腰のかがまないように腹を張り、「くさびを締める」と言って、脇差の鞘に腹をもたせて帯のゆるまないようにするという教えあり。
そうじて兵法の身において、日常の身を兵法の身とし、兵法の身を日常の身とすることが肝要也。よくよく吟味すべし。

一、兵法の目付という事

目の付け方は、大きく広く付ける目也。
「観」「見」二つのこと、観の目は強く、見の目は弱く、遠い所を近く観、近い所を遠く見ること、兵法の特徴也。
敵の太刀を知り、いささかも敵の太刀を見ないということが、兵法に大事也。工夫あるべし。この目付は、小さな兵法にも、大きな兵法にも同じこと也。目玉は動かずして両脇を見ること肝要也。
このようなことは、忙しい時に、にわかにはわきまえがたし。この書き付けを覚え、普段この目付になって、何事にも目付の変らないことを、よくよく吟味あるべきもの也。

一、太刀の持ち方

太刀の持ち方は、親指・人さし指を浮いた感じに持ち、中指を絞めず緩めず、薬指・小指を絞める感じで持つ也。手の形には、たるみがあることは悪い。
敵を切るのだと思い、太刀をとるべし。敵を切る時も、手の形に変りなく、手のすくまないように持つべし。もし、敵の太刀を張ること、受けること、当ること、抑えることがあっても、親指・人さし指だけを少し変える感じで、とにもかくにも、切る、と思い太刀をとるべし。
試し物など切る時の手の形も、戦いの敵を切る時の手の形も、切るという手の形に替わることはない。
そうじて、太刀ででも、素手ででも、「居着く」ということを嫌う。居着くのは、死むる手、也。居着かないのが、生きた手也。よくよく心得べきもの也。

一、足づかいの事

足の運びようの事、つま先を少し浮して、かかとを強く踏むべし。
足づかいは、事によって大小遅速はあっても、常に歩くかごとし。足に「飛び足」「浮き足」「踏み据え足」と言って、この三つは嫌う足也。
この道の大事にいはく、「陰陽の足」と言う。これが肝心也。「陰陽の足」とは、片足ばかり動かさないことである。切る時、引く時、受ける時までも、 「陰陽」と言って、右左、右左と踏む足也。くれぐれも片足を踏むことがあってはいけない。よくよく吟味すべきもの也。

一、五方の構えの事

五方の構えは、上段、中段、下段、右脇に構える事、左脇に構える事、この五方也。
構えを五つに分けると言っても、みな人を切らん為也。構えは五つより外になし。いずれの構えになろうと、構えると思わず、切ることであると思うべし。
構えの大小は、事により利に従うべし。上中下は、基本の構え也。両脇は、応用の構え也。右左の構えは、上が詰って脇一方も詰っている所などでの構えとなる。右左は、所によって使い分けがある。
この道の大事を言うに、究極の構えは中段と理解してよい。中段こそ、構えの根本である。兵法を大きくして見よ。中段は大将の座である。大将に従って残りの四段の構え也。よくよく吟味すべし。

一、太刀の道という事

「太刀の道を知る」というのは、ふだん自分が差している刀でも、道筋をよく知ったら、指二つで自由に振れるということ也。
太刀を速く振ろうとするから、太刀の道に逆らって振りにくい。太刀は、振りやすい程度に静かに振る心也。扇や小刀など使うように速く振ろうと思うによって、太刀の道が違って振りにくい。それは「小刀刻み」と言って、太刀では人の切れざるもの也。
太刀を打ち下げては、上げやすい道へ上げ、横に振っては、横に戻りやすい道へ戻し、できるだけ大きくひじを伸して強く振ること、これが太刀の道也。
我が兵法の五つの基本型を使い覚えれば、太刀の道も定まって振りやすい所となる。よくよく鍛練すべし。

一、五つの基本型第一の事

第一の構え、中段。
太刀先を敵の顔へ付けて、敵に行き合う時、敵の太刀が打ち掛る時に右へ太刀を外して乗り、次に敵が打ち掛る時に切先返しで打ち、打ち落とした太刀はそのままに置き、さらに敵が打ち掛る時に下から敵の手をはる。これ第一也。
そうじて五つの基本型は、書き付けたものだけでは納得しにくい。五つの基本型の本分は、手にとって太刀の道を稽古する所也。この五つの太刀筋で、我の太刀の道も知り、どのようでも敵が打つ太刀の知られる所となる。この二刀流の太刀の構え、五つより他にないと教える所である。鍛練すべき也。

一、基本型第二の事

第二の太刀は、上段に構え、敵が打ち掛る所を一気に敵を打つ也。敵を打ち外した太刀はそのまま置いて、次に敵が打つ所を下からすくい上げて打つ。 もう一つ敵が打つとも、同じ事也。
この基本の中においては、さまざまな感じや、いろいろな拍子がある。この基本型の中でもって一流の鍛練をすれば、五つの太刀の道を細やかに知って、どのようにも勝つ所を得る。稽古すべき也。

一、基本型第三の事

第三の構えは、下段に持ち、引き下げた感じにして、敵の打ち掛ってくる所を下から手を張るのである。手を張る所をまた敵が張る太刀を打ち落そうとする所を、越す拍子で、敵が打った後、二の腕を横に切る感じとなる。下段で敵の打つ所を一気に打ち止める事也。
下段の構えは、太刀筋を修練するのに、速い時にも遅い時にも適合するもの也。 太刀を取って鍛練あるべき也。

一、基本型第四の事

第四の構えは、左の脇に横に構えて、敵の打ち掛る手を下から張ればよい。下から張るのを敵が打ち落そうとするのを、手を張る感じでそのまま太刀の道を受けて、自分の肩の上へ筋違いに切ればよい。これが太刀の道也。
再び敵が打ち掛ってくる時も、太刀の道を受けて勝つ道となる。よくよく吟味あるべし。

一、基本型第五の事

第五の展開は、太刀の構えは我の右の脇に横に構えて、敵が打ち掛ってくる時の契機を受け、我の太刀は、下の横から筋違いに上段に振り上げ、上からまっすぐに切るべし。
これも太刀の道をよく知るためである。この基本で振り馴れたならば、重い太刀も自由に振れるところ也。
この五つの基本型など、細かに書き付けることではない。我が派の一とおりの太刀を知り、また、おおかたの拍子も覚え、敵の太刀を見分けるには、まずこの五つにて日頃から技を磨くことが肝要也。敵と戦いの中でも、この太刀筋に熟練せば、敵の心を受け、いろいろの拍子でどのようでも勝つ所となる。よくよく分別すべし。

一、有構無構の教えの事

「有構無構」と言うのは、太刀を構えるということなどあるはずがない、ということである。とはいえ、太刀を五方に置くことはあるので、構えともなるだろう。 太刀は、敵の出方を機縁とし、所により、勢いに従い、いずれの方に置いてあっても、その敵を切りやすいように持つ心也。
上段も時に従い、少し下がる感じになれば中段となり、中段を利により、少し上げれば上段となる。下段も折にふれ、少し上げれば中段となる。両脇の構えも、利によって少し中へ出せば、中段や下段ともなる感じ也。したがって、構えはあって構えなしという意味になる。
まず太刀を取っては、いずれの構えになるとも、敵を切るという心となる。もし敵の切る太刀を受ける、張る、当る、粘る、触るなどということがあっても、みな敵を切る縁であると心得うべし。受けると思い、張ると思い、当ると思い、粘ると思い、触ると思うから、切ることが不足になってしまう。何事も切る縁と思うことが肝要也。よくよく吟味すべし。
兵法を大きくして、軍勢の配置というのも構え也。みな合戦に勝つ縁也。居着くということは悪い。よくよく工夫すべし。

一、敵を打つに、一拍子打ちの事

敵を打つ拍子に、「一拍子」と言って、敵と我と当るほどの位置を得て、敵が気づかない瞬間を心に得て、我は体も動かさず、心も伴なわず、できるだけ速くまっすぐに打つ拍子也。敵の太刀が引こう、外そう、打とうと思う心のない間を打つ拍子、これが一拍子也。この拍子をよく習い得て、間の拍子を速く打つことを鍛練すべし。

一、二の越しの拍子の事

二の越しの拍子とは、我が打ち出そうとする時、敵が早く引き、早く張ってくるような時は、我が打つと見せて、敵が張ってたるむ所を打ち、引いてたるむ所を打つ、これが二の越しの拍子也。
この書き付けだけではなかなか打てるようになるまい。教えを受ければ、たちまち納得のゆく所也。

一、「無念無想の打ち」という事

敵も打ち出そうとし、我も打ち出そうと思う時、身も打つ身になり、心も打つ心になって、手はいつとなく空から速まって強く打つこと、これが「無念無想」と言って、最重要の打ち方也。
この打ち方は、たびたび適合するものとなる。よくよく習い得て、鍛練あるべき技也。

一、「流水の打ち」という事

「流水の打ち」というのは、互角になって競り合う時に、敵が早く引こう、早く外そう、早く太刀を張り除けようとする時、我は身も心も大きくなって、太刀を我の身の後からできるだけゆるゆると、よどみのあるように、大きく強く打つこと也。
この打ち方は、習い得ては、たしかに打ちやすいものとなる。敵の情勢を見分けることが肝要也。

一、「縁の当り」という事

我が打ち出す時、敵は打ち止めよう、張り除けようとする時、我の打ち方は一つで、頭をも当り、手をも打ち、足をも打つ。太刀の道一つをもってどこであろうと打つこと、これ縁の打ち也。
この打ち方は、よくよく打ち習い、いつでも適合する打ち方となる。たびたび打ち合って、理解あるべきこと也。

一、「石火当り」という事

石火当りは、敵の太刀と我の太刀と付け合うほどで、我の太刀を少しも上げないで、できるだけ強く打つのである。これは、足も強く、身も強く、手も強く、三所をもって速く打たないといけないだろう。
この打ち方は、たびたび練習しなくては打てない。よく鍛練すれば、強く当るものとなる。

一、「紅葉打ち」という事

紅葉打ちとは、敵の太刀を打ち落とし、我の太刀を取り直す感じである。敵が前に太刀を構え、打とう、張ろう、受けようとする時、我が打つ感じは、無念無想打ち、または、石火当りででも、敵の太刀を強く打ち、そのまま後を粘る感じで、切先下がりに打てば、敵の太刀はかならず落ちるものである。
この打ち方を鍛練すれば、打ち落とすこともたやすい。よくよく稽古がないといけない。

一、「太刀に代わる身」という事

「身に代わる太刀」とも言えよう。そうじて、敵を打つに、太刀も身も同時には打たないものである。敵の打つ縁により、身を先に打つ身にし、太刀は身にかかわらず打つ所となる。まれには身はゆるがず、太刀で打つこともあれども、おおかたは身を先に打ち、太刀を後から打つものとなる。よくよく吟味して、打ち習わないといけないだろう。

一、「打つ」と「当る」という事

「打つ」ということと、「当る」ということは、別である。「打つ」という感じは、いずれの打ち方でも、思い決めてしっかり打つのである。「当る」は、行き当る程度の感じで、どれほど強く当り、たちまち敵が死ぬほどでも、これは当るである。「打つ」というのは、意識して打つことである。吟味しないといけない。
敵の手でも足でも「当る」と言うのは、まず当るのである。当って次を強く打つためである。「当る」は触る程度の感じであり、よく習い得れば別々のこととなる。工夫しないといけない。

一、「愁猴の身」という事

「愁猴の身」とは、手を出さない感じである。敵への入り身に、少しも手を出す感じなく、敵が打つ前に身を速く入れる感じとなる。手を出そうと思えば、かならず身は遠退くものになるから、全身を速く移り入れる感じとなる。手で受け合わせるほどの距離ならば、身も入りやすいものだろう。よくよく吟味しないといけない。

一、「漆膠の身」という事

「漆膠」とは、入り身に、よく付いて離れない感じである。敵の身に入る時、頭をも付け、身をも付け、足をも付け、強く付く所となる。誰でも頭や足は速く入るのだが、身は退くものとなる。敵の身に我の身をよく付け、少しも身の間のないように付くことである。よくよく吟味がないといけない。

一、「丈くらべ」という事

「丈くらべ」というのは、何にしても敵へ入り込む時、我の身の縮まないようにして、足をも伸し、腰をも伸し、首をも伸して、強く入り、顔と顔と並べ、身の丈を比べるに、比べ勝つと思うほど丈高くなって、強く入る所が要点となる。よくよく工夫がないといけない。

一、「粘りを掛ける」という事

敵も打ち掛け、我も打ち掛るに、敵が受ける時、我の太刀を敵の太刀に付けて粘る感じにして入るのである。粘るとは、太刀が離れない感じであり、あまり強くない感じに入らないといけない。敵の太刀に付けて粘りを掛け入る時は、どれほど静かに入っても悪くない。
粘るということと、もつれるということ、粘るは強いが、もつれるは弱い。このことは区別がないといけない。

一、「身の当り」という事

「身の当り」は、敵の際へ入り込んで、身で敵に当る感じである。少し我の顔をそむけ、我の左の肩を出し、敵の胸に当るのである。当ること、我の身をできるだけ強くなって当ること、息に合う拍子で、はずむ感じに入らないといけない。
この入り方は、入り習い得ては、敵を二、三間もはじき飛ばすほど強いものとなる。敵が死に倒れるほどにも当るのである。よくよく鍛練がないといけない。

一、「三つの受け」の事

「三つの受け」というのは、敵へ入り込む時、敵が打ち出す太刀を受けるのに、我の太刀で敵の目を突くようにして、敵の太刀を我の右肩へ引き流して受ける、また、「突き受け」と言って、敵が打つ太刀を、敵の右目を突くようにして、首を挟む感じに突きかけて受ける、また、敵が打つ時、短い太刀で入るのに、受ける刀はそれほどかまわず、我の左手で敵の顔面を突くようにして入り込む、これが三つの受けである。左の手を握って、こぶしで顔面を突くように思わないといけない。よくよく鍛練がないといけないものである。

一、「面を刺す」という事

「面を刺す」というのは、打ち合いになって、敵の太刀の間、我の太刀の間に、敵の顔を我の太刀先で突く感じにつねに思う所が要点となる。敵の顔を突く感じがあれば、敵の顔も身も退くものとなる。敵を退かせるようにしたならば、いろいろと勝つための優利がある。よくよく工夫しないといけない。
戦いの中に敵の身の退く感じがあったら、もはや勝つ所となる。それだから、面を刺すということを忘れてはいけない。兵法稽古の中で、この優利は、鍛練がないといけないものである。

一、「胸を刺す」という事

胸を刺す」というのは、戦いの中で、上も詰り、脇も詰っている所などで、切ることがどうにもできない時、敵を突くことである。
敵の払う太刀を外すコツは、我の太刀の峰をまっすぐに敵に見せて、太刀先がゆがまないように引き取って、敵の胸を突くことである。
もし我が疲れた時や、または、刀の切れない時などには、この技をもっぱら用いる感じとなる。よくよく理解しないといけない。

一、「喝咄」という事

「喝咄」というのは、いずれも、我が打ち掛け敵が押し込む時、敵がまた我を打ち返すような所を下から敵を突くように上げて、返しで打つことである。いずれも速い拍子でもって「喝咄」と打つのであり、「喝」と突き上げ、「咄」と打ち込む感じとなる。
この拍子、いつも打ち合いの中ではとても適合することとなる。喝咄の仕方は、切先を上げる感じで敵を突くと思い、上げると同時に打つ拍子であり、よく稽古して吟味がないといけないことだろう。

一、「張り受け」という事

「張り受け」というのは、敵と打ち合う時、トタン、トタンという拍子になったら、敵の打つ所を我の太刀で張り合せて打つことである。張り合わせる感じは、それほどきつく張るのではなく、また、受けるのでもない。
敵の打つ太刀に応じて、打つ太刀を張って、張るより早く敵を打つことである。
張りで先を取り、打ちで先を取ることが重要である。
張る拍子がうまく合えば、敵がどれほど強く打っても、少し張る感じがあるだけで太刀先の落ちることはない。よく習い得て、吟味がないといけない。

一、多敵の情勢のこと

「多敵の情勢」とは、一身で大勢と戦う時のことである。
我は太刀も脇差も抜いて左右に広く、刀を横に捨てて構えるのである。敵が四方から掛るとも、一方へ追い回す感じとなる。
敵が掛る契機の後先を見分けて、先に進む者に早く行き合い、大きく目を付けて、敵が打ち出す契機を得るのであり、右の太刀も左の脇差も一度に振り違えて待つことは悪い。速く両脇の位置に構え、敵の出ている所を強く切り込み、押し崩して、そのまままた敵の出ている所へ掛り入り、振り崩す感じである。
どうにかして敵を一度に魚つなぎに追いなす感じに仕掛けて、敵が重なると見えたら、そのまま間を空けさせず、強く払い込まないといけない。敵が混み合う所をひたすら追い回したのでは、はかどらない。かといって、敵が出てくる方、出てくる方と思ったのでは、待つ心があって、はかどらない。それぞれの敵の拍子を受けて、崩れる所を知り、勝つことである。
折々に相手を多く集め、追い込みつけてその感じを得れば、一人の敵も十、二十の敵も安心なこととなる。よく稽古して吟味がないといけないだろう。

一、打ち合いの利の事

この打ち合いの利用ということで、兵法、太刀での勝つ優利をおさめる所となる。細やかに書き記しはしないが、よく稽古して勝つ所を学ばないといけないものだろう。おおかた兵法の真の道を象徴している太刀となる。口伝。

一、「一つの打ち」という事

この一つの打ちということをもって、確かに勝つ所を得ることとなる。兵法をよく学ばなければ、心得られまい。この点をよく鍛練すれば、兵法は心のままとなって、思うままに勝つ道となる。よくよく稽古しないといけない。

一、二天一流の極意

極意は、二刀一流の真の道を受けて伝わる所となる。よくよく鍛練して、この兵法に身を成すことが重要也。口伝。



右、書き付けた所で、当流の剣術、おおかたこの巻に記しおいたことになる。
兵法、太刀を取って人に勝つ所を覚えるには、まず、五つの基本を使って五方の構えを学び、太刀の道を覚えて全身を柔軟に成し、心の鋭さを磨いて物事の拍子を知る。すると、おのずから太刀も腕冴えて、身も足も思うままにくつろいだ時のようになり、一人に勝ち、二人に勝ち、兵法の良し悪しを知るほどになる。
そして、この一書の内容を一条一条と稽古して、敵と戦い、次第次第に道理を得て、たえず心に懸ける。
急ぐ心なく、折々、手に触れてはコツを覚え、どこの人とも打ち合い、その核心を学んで、千里の道も一足ずつ運ぶのである。ゆっくりと思い、この法を行なうことが武士の役目と心得て、今日は昨日の我に勝ち、明日は下手に勝ち、後々は上手に勝つ、と思い、この書き物のようにして、少しも脇の道に心が外れないように思わないといけない。たとえどれほどの敵に打ち勝っても、道理に背くことにおいては、実の道であるはずがない。
この優利を心に浮かべては、一身をもって数十人にも勝つ心の覚悟もできるはずである。そうなれば、剣術の知力で、大勢一身の兵法も道を得られるだろう。
千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を練とする。よくよく吟味がないといけないものである。

 正保二年 五月十二日 新 免 武 蔵   寺 尾 孫 丞 殿