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武士道

封建制度の時代に自覚され起源した一定の支配権を持つ者に必要であった精神文化の一つである「武士道」。

「武士道」に学び、現代に生かすとのできるものを見いだす為に、武士道に関連することについて掲載し、日本人の

アイデンティティを考えて行きたいと思います。

武士道とは   新渡戸稲造(1862年-1933年)

欧米の知識層に驚くほどの早さで、日本人の気質、日本人の価値観、日本人の団結力、日本人の優秀性を一躍知らしめる上で大成果を上げた著書

に新渡戸稲造の「武士道」があった。以下に新渡戸稲造の著書「武士道」について要約掲載します。

「武士道はその表徴たる桜花と同じく,日本の土地に固有の花である」。こう述べる新渡戸稲造は,武士道の淵源・特質,民衆への感化を考察し,武士

道がいかにして日本の精神的土壌に開花結実したかを説き明かしたのである。

名誉はその人の置かれた境遇によってもたらされるものではなく、自己の役割をまっとうすることに努めるその心の姿勢に対して与えられるものである。

武士道では、武士としての名誉を守るためであれば、一個の生命すら安いものだと確信されていた。

その武士にとって最大の名誉が忠義を守ることであった。

忠義とは「中心を自覚する正義に則った道義」という意味である。つまり国家や社会、組織や集団において、人間としてもっとも普遍的な評価に値する思

想的裏付けをともなう自覚的行動であり、その国家・社会・組織・集団をよりよいものにするために求められるに不可欠な行動の事に他ならなかった。

「映画インディペンデンスディが見せた、ある老人が地球を守る為に行った自己犠牲の行為と同様なものであったのである」

武・士・道とは字義どおりに言えば戦士たる人の本来の職分のみならず、日常生活における規範をも意味している。一言で言えば「騎士道の精神」、武士

階級の「高い身分に伴う義務」であった。

武士道とは、武士が守るべきものとして要求され、また教育を受ける道徳的徳目の作法である。しかるに一個の頭脳が創造し得たものではなく、何百年

にもわたる武士の生き方の産物であったのである。ただ武士道は封建制の時代に自覚されたものであり、その起源は封建制と一致するが、道徳的な教

義は、孔子・孟子の教えが武士道のもっとも豊かな源泉となった。

孔子が述べた君臣、父子、夫婦、兄弟、朋友の関係、孟子の人民主義的な理論は武士の心の中に住みかを見いだしていったのである。

論語は、武士にとって大切な教科書となったが、武士道は単なる知識のための知識は軽視したのであった。

知識を得ることは、本来の目的ではなく、知恵を得る手段なのであり,知識のみを得、その知識を己の知恵として実を得ることをやめた者は、求めに応じ

て詩歌や格言を機械的につくりだす単なる便利な機械以上のものではないと見なされたのである。

一、「義」
サムライにとって裏取引や不正な行いほどいまわしいものはなかった。

今の世にも受け容れられている、赤穂の四十七人は「義士」として知られているが、それは義士達の真摯な男らしい徳行が賞賛をかちえたからであった

義とは正義の道理であり、勇敢という徳行と並ぶ武士道の双生児であった。

義から派生した義理とは本来は「正義の道理」なのであり、純粋な意味において、義理とは純粋かつ単純な義務をさしていたが、人間がつくりあげた慣習

の前にしばしば自然な情愛が席を譲らなければならないような理不尽な社会で生まれるものが義理なのであろう。

「正義の道理」からはじまった「義理」は言葉を誤用され、別の意味を持つようになり、あらゆる詭弁と偽善を抱えるようになったのである。

二、「勇」

 義を見てせざるは勇なきなり

勇気は、義によって発動されるのでなければ、徳行の中に数えられる価値はないとされた。

勇気とは正しいことをすることである。すなわちあらゆる種類の危険を冒し、生命を賭して死地に臨むことであり、しばしば勇猛と同一視されがちであるが

、武士道の教えるところでは、死に値しないことの為に死ぬことは犬死にとされたのである。

サムライは幼いころから勇猛、忍耐、勇敢、豪胆、勇気を実践と手本によって訓練され胆力を錬磨したのであった。

勇気の精神的側面は落ち着きである。まことに勇気のある人は、常に落ち着いていて、決して驚かされたりせず、何事によっても心の平静さをかき乱さ

れることはない。

彼らは戦場の昂揚の中でも冷静であり、破滅的な事態のさなかでも心の平静さを保っていなければならなかったのである。危険や死を眼前にするとき、

なお平静さを保つことができる人こそ立派な人として尊敬されるのである。

三、「仁」

 愛、寛容、他者への同情、憐れみの情は至高の徳、人間の魂の持つあらゆる性質の中の最高のものと認められている。孔子や孟子は、幾度となく民

を治める者が持たねばならぬ必要条件は仁にありと説いた。

仁は、優しく、母のような徳である。高潔な義と厳格な正義を男性的とすれば、慈愛は女性的な性質である優しさと諭す力を備えている。

最も剛毅なる者は、最も柔和なる者であり、愛ある者は勇敢なる者である。

武士の情けは、その慈悲が盲目的衝動ではなく、正義に対する適切な配慮を認めているということを意味し、相手の生殺与奪権を背後に持っていること

を意味する。か弱い者、劣った者、敗れた者への仁は、特にサムライに似つかわしいものとして、いつも奨励されていた。

四、「礼」

 他者の苦しみに対する思いやりの気持ちを育てる。他者の感情を尊重することから生まれる謙虚さ、慇懃さが礼の根源である。

礼とは、他人の気持ちに対する思いやりを目に見える形で表現することであり、物事の道理を当然のこととして尊重するということである。

「長い苦難に耐え、親切で人をむやみに羨まず、自慢せず、思い上がらない。自己自身の利を求めず、容易に人に動かされず、およそ悪事というものを

たくらまない」ものである。

礼儀作法を社交上欠くことができないものとして、入念な礼儀の体系が出来上がったのであった。人に挨拶するときのお辞儀の仕方、足の運び方、座り

方、等こと細かな規範とともに学ばれた。食事の作法は学問にまでなり、茶の湯も儀式的芸術にまで高められ、教養ある者はこれらすべてのことを当然

のこととして身につけている必要があった。

儀礼的な礼儀作法には不必要なくどくどしさがあるが、その中には礼の厳しい尊守に伴う道徳的訓練があるのである。

五、「誠」

 「言」と「成」の部分からなる誠という表意文字の組み合わせは、武士にとって自分達の高い社会的身分が商人や農民よりも、より高い誠の水準を求め

られていると考えていたのである。「武士の一言」は断言したことが真実であることを充分に保証するものであり、武士の言葉は重みを持っているとされて

いたので、約束はおおむね証文無しで決められ、実行された。

「二言」二枚舌の為に死をもって罪を償った武士の壮絶な物語が数多く語られ、真のサムライは誠に対して非常に高い敬意を払っていたのである。

六、「名誉」

 名誉という感覚は個人の尊厳とあざやかな価値の意識を含んでいる。

名誉は武士階級の義務と特権を重んずるように、幼児のころから教え込まれるサムライの特色をなすものであった。

「羞恥心」という感性を大切にすることは、幼少のころの教育においても、まずはじめに行われたことであった。

名誉の些細な掟がおちいりがちな、行き過ぎは寛容と忍耐を説くことで相殺される。

些細な挑発に腹をたてることは「短気」として嘲笑されるのである。

徳川家康は「人の一生は重荷を負うて行くが如し、急ぐべからず。堪忍は無事長久の基。己を責めて人を責むるべからず」といっている。但し、この言葉

は後の研究によると、徳川家康が残したものではないことが判っている。

名誉は「境遇から生じるものではなく、それぞれが自己の役割をまっとうに努めることにある。若者が追求しなければならない目標は富や知識ではなく、

名誉であった。もし名誉や名声が得られるならば、生命自体は安いものだとさえ思われていたのであった。  

七、「忠義」

 人は何の為に死ぬるか

日本人の忠義とはいったい何か、すなわち、主君に対する臣従の礼と忠誠の義務は封建道徳を顕著に特色づけている。 犯罪者一味でさえ子分は親分

に忠誠の心を捧げている。

しかし、忠誠心がもっとも重みを帯びるのは、武士道の名誉の規範においてのみである。私たち日本人が考えている忠義は、他の国ではほとんどその信

奉者を見出すことはできないであろう。

それは他の国では到達しなかったくらいにまで、その考え方を進めたからである。

日本では、命令に対する絶対的な従順が存在した。日本史上、特筆すペき一人である菅原道真にかかわる物語である。

道真は嫉妬と讒言の犠牲となって京の都を追放された。だが無慈悲な彼の敵はそれだけで満足せず、いまや道真の一族を根絶やしにせんものとたくら

んだ。そして、まだいたいけな道真の幼な子を厳しく探索し、かつて道真の従者であった源蔵の寺子屋にその子がかくまわれていることをつきとめた。

その結果、源蔵に幼い罪びとの首を定められた日に届けるように、との命令が伝えられた。

そのとき、源蔵がまず考えついたことは、その子の身替りを見つける、ということであった。

源蔵は寺小屋の名札を思案し、そこへやってくる幼童達の一人一人を吟味した。だが、その地生まれの幼童の中には、誰一人として源蔵がひそかに護

りぬこうとしている若君に似ている者はいなかった。 しかし源蔵の絶望はほんのひとときであった。

見よ、品のいい物腰の母親に伴われて顔だちの整った、年の頃もかの若君と同じ少年が寺小屋に入門してきたのだ。

さて、幼君と幼い従者がよく似ていることに、その母とその子自身が気づいた。そこで、その家の人目にふれぬ場所で、母子はみずからを神仏の祭壇に

捧げる決意をした。子は、その生命を、そして、その母はその心を。 だが母と子はそれらしき覚悟を露一筋だに表わさなかった。 

一方で源蔵は、この母子二人の間に行なわれたことを気つかずに、身替りのことを考えていたのである。そして、ここに犠牲の山羊が決まったのだった。

定められた日に若君の首級を確かめ、受けとるように命ぜられた役人(松王丸)がやってきた。

彼は果たしてその贋首に気づくだろうか。哀れにも源蔵は、その刀の柄に手をかけ、もしこのたくらみが検視の役人の取調べによって見抜かれたならば

、即座にその役人か、あるいは自分自身に白刃の一閃を加えんものと決意していた。

検視役、すなわち松王丸は、前に置かれた身の毛もよだつ物体をとりあげ、一つ一つその特徴をごく冷静に吟味した。そしておごそかに、かつ手慣れた

調子でその首がまちがいなく本物であることを述べた。その夜、あの母親は人気のない家でなにかを待ち受けていた。その母はわが子の運命を知ってい

るのであろうか。母親が表門が開くのを身じろぎもせず見守っているのは息子の帰宅を待っているのではない。

その母親の舅は長きにわたって道真公から恩寵を受けていた。だが、公の配流後、その夫たる人は、やむを得ぬ成り行きから一家の御恩を受けた人の

敵(藤原時平)に仕えねばならなくなっていた。

しかし世のならいとして、自分の主君に対して不忠であることは許されなかった。だからこそ、息子を立派に祖父の主君に役立てたのだ。

そして、なんと道真一族と顔見知りであるという理由によって、その夫、すなわち父(松王丸)が年端もいかぬ我が子の首実検の役目を命ぜられたのであ

る。その人生にとって最も過酷な役目を終えて、夫は帰宅した。そして、ぴしゃりと閉めた瞬間「我らがいとけし倅は立派にお役に立ったぞ。悦べ女房」と

叫んだ。「なんという残酷な物語」、「なんとまあ、他人の子の生命を救うために、なんの咎もない自分たちの子を無惨にも犠牲にするとは」

だが、この子は己の死ぬ理由を知って、みずから選んで犠牲となったのである。しかも、これは身替りの物語である。

義務の命ずるところに対する従順、そしてより高い世界から発せられる命令に対する絶対的な従順が存在したのだ。

西洋の個人主義は父と子、夫と妻に対して、それぞれ個別の利害を認めている。従って、人が他に対して負っている義務は著しく軽減されている。

しかし武士道においては、一族の利害とその個々の成員の利害は一体不可分であるとする。

武士道は、この利害を愛、自然で、本能にもこづくもので、かつ他の者がとってかわることができないもので結びつけた。

武士道は、義理と人情の板挟みにあった場合、ためらうことなく、忠義を選んだ。女性も又、我が子に主君の為にすべてを捧げるように奨励した。

武士道では個人よりも国がまず存在すると考える。個人は国をになう構成部分として生まれてくる。その為、個人は国の為、その合法的権威の為に生き

、又は死なねばならないとした。しかし、武士道は良心を主君や国王の奴隷として売り渡せとは命じなかった。己の良心を主君の気まぐれや酔狂、思いつ

きの犠牲にする者に対しては、武士道の評価はきわめて厳しかった。

そのような者は無節操なへつらいをもって主君の機嫌をとる者、奴隷のごとき追従の手段を弄して主君の意を迎えようとする者として軽蔑された。

主君と意見が分かれるとき、家臣のとるべき忠節の道は、あくまで主君のいうところが非であることを説くことであった。 

もし、そのことが容れられないときは、侍は自己の血をもって自分の言説の誠を示し、その主君の叡智と良心に対して最後の訴えをすることは、ごく普通

のことであった。

生命は主君に仕える手段とさえ考えられ、その至高の姿は名誉あるべきものとされたのである。侍の全ての教育や訓練はこのことに基づいて行われた

のである。


武士は何を学び、どう己を磨いたか

武士の訓育にあたって第一に必要とされた、その品性を高めることであった。そして明らかにそれとわかる思慮、知性、雄弁などは第二義的なものとされ

た。武士の教育において、美の価値を認めるということが重要な役割を果たしてきた。それらは教養ある人にとっては不可欠あるが、侍の訓育にあたっ

ては本質をなすというよりもむしろ外見であった。知能が優秀であることはもちろん重んじられたが、知性を意味する「知」という漢字は、第一に叡智を意

味し、知識は従属的な地位を与えられるにすぎなかった。

武士道の枠組みを支えている鼎の3つの脚は「智、仁、勇」といわれ、それぞれ、知恵、慈悲、勇気、を意味している。

侍は本質的に行動の人である。学問は侍の行動原理の外側にあった。もちろん武士としての職業に関連する限りにおいて、学問を利用した。

また、儒学や文学は武士の知的訓練の主要な部分を形成している。しかしそれらを学ぶときでさえ、侍が求めたものは客観真実ではなかった。

つまり、それらは戦闘場面や政争を説明するためではなく、文学の場合は勉学の合間を埋めるものとして、儒学はその品性を確率するための補助手段

として追求されたのである。

武士道の訓育において、その教科とされるものは主として剣術、弓術、柔術、乗馬、槍術、戦略戦術、書、道徳、文学、であった。

書を能くすることは、大いに重んじられた。 それらは、おそらく日本の文字が絵画的性質を持っており、それ自然として芸術的鑑賞にもたえ得る価値を

持っているからである。 また、書体は、その人となりを表わしていると信じられているからである。

柔術を簡潔に定義すると、攻撃や防御のために、解剖学的知識を応用することとなる。

柔術は腕力に頼らない、という点で他の攻撃術と異なる。その技は相手の身体のある部分をつかんだり、叩いたりして、相手を気絶させたり、抵抗できな

いようにするものである。その目的は相手を殺すことではなく、一時的に行動できないようにさせることである。

武士道は、損得勘定をとらない

軍事教練において、当然あるべきものとされていながら武士道の訓育に欠けているものに、算術がある。しかしこれは封建時代の戦闘は必ずしも科学的

正確さを伴うものではなかった。

侍の訓育全体から見て、数の観念を育てるということは都合が悪かったのである。 武士道は損得勘定をとらないし、むしろ足らざることを誇りにする。

時代の頽廃を述べるときの常套句は 「文臣銭を愛し、武臣命を惜しむ」というものであった。

銭を惜しみ、命を失うことを恐れる風潮は、それらを無駄に費やすことと同じく、非難の的となった。

よく知られている格言は、「なかんずく金銀の欲を思うぺからず、富めるは、智に害あり」といっている。

従って、武士の子弟は経済のことを全く眼中に入れないように育てられた。

経済のことを口にすることは、むしろ、はしたないこととされたのである。

数の知識は、出陣や陣立や恩賞、知行の際に欠くことができなかった。 だが金銭の計算は身分の低い者に任された。

多くの藩財政は小身の武士か、あるいは僧侶に任されていた。 もちろん思慮のある武士は誰でも軍資金の意義を認めていた。

しかし、金銭の価値を徳にまで引き上げることは、考えもしなかったのである。

武土道が節約を説いたのは事実である。 だが、理財の為ではなく節制の訓練のためであった。

奢侈は人格に影響を及ぼす最大の脅威とされ。最も厳格かつ質素な生活が武士階級に要求され、多くの藩では倹約令が実行された。

金銭や金銭に対して執着することが無視されてきた結果、武士道そのものは金銭に由来する無数の悪徳から免れてきた。

頭脳の訓練は、今日では主として数学の勉強によって助けられている。 だが、当時は文学の解釈や道義論的な議論をたたかわすことによってなされた

。 武士道の学問能力の効用は「判断と実務の処理」のために用いられることを目的とした。

公務処理、自制心の訓練のためであるにせよ、実践的な目的をもってその教育が行われたのである。

教える者が、知性ではなく品性を、頭脳ではなく、その心性に働きかけるとき、教師の職務はある程度まで聖職的な色彩を帯びる。

「私を生んだのは父母である。 私を人たらしめるのは教師である」 この考えが行き渡るとともに、教師が受けた尊敬はきわめて高かった。

どんな仕事に対しても、その報酬を支払う現代のやりかたは、武士道の信奉者の間では広まらなかった。

武士は無償、無報酬で行われる実践のみを信じた。 精神的な価値にかかわる仕事は、僧侶、神官であろうと、その報酬は金銀で支払われるべきもの

ではない。 それは無価値であるからではなく、価値が計れないほど貴いものであるからだ。

ここにおいて武士道の本姓、すなわち算術で計算できない名誉を重んずるという特質は、近代の経済学以上に、はるかな真実の教えを人々に教えたの

である。もっとも、1年の内ある時季に、弟子たちが師になにがしかの金銭や品物を持参する慣習は認められていた。だが、この慣例は支払いではなく、

感謝の意を表す献上の金品であった。実のところ、それらの金品は贈られた側にも大いに喜ばれた。

彼らは通常、厳格さと誇りある貧乏で知られており、さりとてみずからの手を用いて働くにはあまりにも威厳がありすぎ、自ら人に物を乞うには自尊心が強

すぎる人々であったからだ。

彼らは逆境に屈することのない、高貴な精神の威厳ある権化であった。 彼らはまた、学問の目指すところのものの体現者であり、鍛錬に鍛錬を重ねる

自制心の生きた手本であった。 そして、その自制心は侍にあまねく必要とされるものであった。

人に勝ち、己に克つために

侍は、感情を顔に出すペからず。 武士道においては不平不満を並べたてない不屈の勇気を訓練することが行なわれていた。そして他方では、礼の教

訓があった。それは自己の悲しみ、苦しみを外面に表わして他人の平穏をかき乱すことがないように求めていた。 この両者が一つになって禁欲的な気

風を生み、ついにはあたかも国民合体が禁欲主義的な気質をもつかのような固定観念ができあがった。日本人も習俗や風習のあるものは、外国人の目

からすると冷酷と映っているかもしれないからである。しかし、本当のところ、私たち日本人はこの世界のどんな民族にも負けないくらいに優しい感情を持

った民族なのである。 ある意味では、日本人が他の民族よりも遥かにに多く、何倍も物事に感じやすい気質を持っていると思える。

何故ならば、自然にわき上がってくる感情を抑えること自体が苦しみを伴うものだからである。

侍にとっては、感情を顔に表すことは男らしくないと考えた。立派な人物を評するとき、「喜怒を色に表さず」という言葉がよく用いられた。そこではもっとも

自然な感情が抑制されていた。父親はその威厳を犠牲にして、子を抱くことはできなかった。夫はその妻に口づけをすることはできなかった。

私室ではともかく、人前ではなしえなかったのである。沈着な振る舞いや心の安らかさは、どんな種類の情熱によってもかき乱されることがあってはならな

いのであった。

なぜ「寡黙」がよしとされるのか

私たちは、誠意と情熱によって感情を突き動かされ、雄弁になることがある。ある若い侍は、日記に次のように書いている。

「汝の霊魂の土壌が微妙なる思想を持って動くを感ずるか。それは種子の芽生えるときならん。言葉をもってこれを防ぐるな。静かに、密やかに、これを

して独り働かしめよ」多弁を弄して、心の奥底の思想や感情、特に宗教的な感情を述べるということは、私たち日本人にとっては、その行為自体があまり

深刻でもなく、また誠意に欠けることであるとされた。 ことわざに「口開けて腸見するザクロかな」といっている。

日本人には自分の性格の弱点を厳しく突かれたときでさえ、常に笑顔を絶やさないという傾向がある。日本人の笑いには、状況の激変によって心の安ら

ぎがかき乱されたとき、心の平衡を取り戻す努力を旨く隠す役目を果たしているからである。笑いは、悲しみや怒りのバランスでさえある。 

心安らかに保つ為に

日本人は激しやすく、敏感なところがありますが、長い年月に渡る自己抑制の訓練を考える必要があります。

自己抑制の訓練は時として、度を過ごしやすい。それは、思いやりの心を完全に抑えることもできる。素直な性質を歪めたり、途方もないものに変えるこ

ともできる。 偏屈を生んだり、偽善をはぐくんだり、時には情愛を鈍感にさせたりもする。

その徳目がどんなに気高いものであったとしても、そのマイナス面や、偽物が存在する。私たちはそれぞれの徳目の中に、それ自体の優れた点を認め、

その理想とするところを積極的に押し進めなければならない。

自己抑制の理想とは、日本人の表現方法によれば、心の安らかさを保つことである。

「切腹」

腹切りの「腹」は何を意味するのか

腹切り、敵討ち、として知られている二つの制度については、多くの外国人著述家がかなり詳しく述ペている。まず、自殺から説明しよう。「腹を切り裂くと

は、なんと馬鹿げたことか」と、異国の人の耳には、はじめは途方もなく奇妙に聞こえるかもしれない。しかし、シェイクスピアを読んだ人は、そのことがそ

れほど驚くにあたらないことを知っているにちがいない。

シェイクスピアはブルータスに次のようにいわせている。「汝(カエサル)の魂魄あらわれ、わが剣を逆さにして我が腹を刺しむ」と。

また、イギリスの近代のある詩人は、その「アジアの光」という作品の中で、女王の腹に突き刺さった剣について語っていることに耳を傾けよう。

この場合、誰も品の悪い英語とか、表現の適切さという点で、著者を非難していない。このことからも、日本人の切腹に対する考えが、嫌悪・嘲笑によって

損なわれることはないと信ずる。

日本人の心の中で切腹がいささかも不合理でないとするのは、身体の中で特に腹を選んで切るのは、その部分が霊魂と愛情の宿るところであるという古

い解剖学の信念に基づいていたのである。他国における予言者も、腸が「鳴動する」とか「腸がいたむ」といっている。これらはいずれも腹の中に霊魂が

宿るという日本人の間に流布している信仰と共通している。日本人とギリシャ人は等しく、人間の霊魂は身体のどこかに宿ると考えた。このように考える

民族は古代の人々に限られるわけではない。「我は我が霊魂の座すところを開き、貴殿にそれを見せよう。穢れありとするか、清しとするか、貴殿みずか

らこれを見よ」名誉を何よりも重んずる考え方は、多くの人々にとってみずからの生命を棄てる十分な理由となった。

切腹は一つの法制度、儀式典礼である。

武士道においては、名誉の問題とともにある「死」は、多くの複雑な問題解決の鍵として受け入れられた。大志を抱く侍にとっては、畳の上で死ぬことは、

寧ろふがいない「死」であり、望むべき最期とは思われなかった。切腹は一つの法制度であり、同時に儀式典礼であった。中世に発見された切腹とは、武

士がみずからの罪を償い、過去を謝罪し、不名誉を免れ、盟友を救い、みずからの誠実さを証明する方法であった。

法律上の処罰として切腹が行われるときは、それ相当の儀式が実行された。それは、純化された自己破壊であった。極めて冷静な感情と落ち着いた態

度がなければ、誰も切腹など行い得るはずはなかった。切腹はいかにも武士階級にふさわしいものであった。

切腹はどのように行われたか

「旧日本の物語」という著作の中で、ミッドフォードは、「切腹」に関する論文を翻訳し、さらに自信が目撃した処刑の例を詳しく述べている。

「我々(7人の外国使節団)は日本側の検視役に先導されて、その寺院の本堂へ招き入れられた。

ここで切腹の儀式が行われることになっているのである。その儀式はまことに堂々として、忘れ得ぬ光景であった。

本堂の屋根は高く、黒ずんだ柱で支えられていた。天井からは仏教寺院特有の巨大な金色の灯籠や、飾りがたくさん垂れ下がっていた。

正面の一段高く置かれた仏壇の前には、床から3、4寸高くなっている座が設けられている。そこには美しい新畳が敷かれ、赤い毛氈がのべられていた。

等間隔に並んでいる丈の高い燭台はほの暗く、神秘的な光を放っていた。それは、ここで行われることの進行を見守るには十分な明るさであった。

7人の日本人検視役が切腹の座の向かって右側に、7人の外国人検視役は左側に着席した。その他には誰もこの場に居合わせる者はいなかった。

数分が過ぎ、やがて逞しい32歳になる偉丈夫、滝善三郎が粛々と本堂に歩みを運んできた。

彼はこの儀式のために麻の裃に身を包んでいた。彼は一人の介錯人と金糸の縫い取りのついた「陣羽織」を着た三人の役人を付き従えていた。

介錯人は立派な身分の者が行う。大抵は、切腹する者の一族か、友人によって行われる。この両者の関係は犠牲者と処刑人という関係ではない。

むしろ、主役と脇役という関係である。今回の「介錯」は滝善三郎の弟子の一人であった。彼は剣の達人だということで朋輩から選ばれたのであった。

やがて、介錯人を左に従え、滝善三郎はやおら日本人検視役のほうへ進み出た。二人は検視役に丁重にお辞儀をして、ついで外国人検視役のほうへ

近づいて、同様に一段と丁重な挨拶をした。どちらの検視役もおごそかな答礼でこたえた。

そこで、この咎人はゆっくりと背を向け、毛氈の上に正座した。介錯人は彼の左側にうずくまった。三人の付き添いの役人のうち一人が神仏に献げるとき

に用いる台(三方)を持って前に進み出た。その三方には白紙で包まれた脇差しが乗せられている。役人は三方を咎人に手渡し、一礼した。

善三郎は三方を両手で頭の高さまで捧げ、うやうやしく受け取り自分の前に置いた。

再度、丁重なお辞儀を繰り返した後、口上を述べた。「拙者はただ一人、無分別にも誤って神戸において外国人に対し、発砲の命を下し、その逃れんと

するを見て、再び撃ちかけし候。拙者今、その罪を負いて切腹いたす。各々方には検視の御役目ご苦労に存じおり候」

再度の一礼ののち、善三郎はおもむろに、しっかりとした手つきで、前に置かれた短刀を取り上げた。そして、しばらく考えを集中しているかの様子の後、

その短刀で左脇下を深く突き刺し、次いでゆっくりと右側へ引き、そこで刃のお向きを変えてやや上方へ切り上げた。

このすさまじい苦痛にみちた動作を行う間中、彼は顔の筋一つも動かさなかった。短刀を引き抜いた善三郎はやおら前方に身を傾け、首を差し出した。

そのとき、初めて苦痛の表情が彼の顔を横切った。だが、声はなかった。 その瞬間、それまで善三郎のそばにうずくまって、事の次第を見つめていた介

錯人が立ち上がり、一瞬、空中で剣を構えた。

一閃、重々しくあたりの空気を引き裂くような音、どうとばかりに倒れる物体。太刀の一撃でたちまち首と胴体は切り離れた。

堂内叔として声なく、目前にある生命を失った肉塊から、どくどくと流れる血潮の恐ろしげな音が聞こえるだけであった。介錯人は低く一礼し、あらかじめ

用意された白紙で刀を拭い、切腹の座から引き下がった。血塗られた短刀は、仕置きの証拠として、おごそかにもち去られた。それから政府の検視役二

人は座を立ち、外国人検視役の座っているところへ近づき、滝善三郎の死の処分が滞りなく遂行されたことを改められたい、と申し述べた。

儀式は終わり、我々は寺を後にした。

武士道における生きる勇気と死ぬ勇気

「切腹」の栄光は、あまり正当とは認められない犯罪に対しても、少なからず拡大して濫用された。道理に反した原因や、あるいは全く死に値すべくもない

理由のために、血気はやる若者たちは、あたかも飛んで火に入る虫のように死に急いだ。多くの侍が、この行為に駆り立てられた。生命の代価は安かっ

た。それは、世間の名誉の基準とみなされていたために、とりわけ軽んじられた。しかし、侍にとって、いたずらに死を急ぐことや死を恋いこがれることは

卑怯と同義であった。 一人の典型的な武士をあげよう。 彼は次々と戦いに敗れ、山野を彷徨し、森から洞窟へと追いつめられた。そして、ついに刀欠

け、弓折れ、矢尽きて、ただ一人ほの暗い木のうろで空腹に耐えかねている己を見出した。この侍はここに及んでも死ぬことは卑怯だと考えた。あらゆる

困苦、逆境にも忍耐と高潔なこころをもって立ち向かう。これが武士道の教えであった。それは孟子が教えたとおりのことであった。

真の名誉とは、天の命ずるところを全うするにある。そのために死を招いても不名誉とはされない。天が与えようとしているものを避けるための死は、卑

劣きわまりない。サー・トマス・ブラウンの著書に武士道の教えとまったく同じことを述べているくだりがある。「死を軽蔑するのは勇気の行為である。

しかし、生きることが死ぬことよりいっそう困難な場合は、あえて生きることの方が真の勇気である」

「四十七士」の仇討ちにみる2つの判断

武士道の切腹の制度と姉妹関係にあるといってよい「仇討ち」の制度について見てみよう。

復讐には人の正義感を満足させる何かがある。 仇を討とうとする者は次のようにその考えを押し進める。

「我が父には死すべき理由はまったくなかった。我が父を殺した奴は大きな罪を犯したのだ。もし、父が存命であったならば、このような行為を決して看過

しなかたに違いない。

天もまた悪事を憎む。悪を行う者の行為をやめさせることは父の意志であり、天の意志でもある。今、我は我が手であいつを葬らねばならない。」

この考えは単純で幼稚だといえるかも知れない。だが、この考えの中には生来の正確な平衡感覚と平等な正義感が示されている。

「目には目を、歯には歯を」である。

私たちの復讐の感覚は、私たちの数学の能力と同じように正確である。等式の両項が満足させられない限り、何かが果たされずに残っている。という

感覚を私たちは拭うことができない。武士道に一種の道徳的均衡を保たせるための一種の道徳法廷として、仇討ちの制度をつくらしめた。そこには、人

々は普通の「定め」に従っていては裁きができないような事件を訴えることができた。

「四十七士」の主君である浅野内匠頭は死罪を命じられた。彼には控訴すべき上級法廷はなかった。従って、忠義にあふれた、その家臣たちは唯一の

最高法廷ともいうべき「仇討ち」の手段に訴えるほかなかった。

「仇討ち」を実行した家臣たちの裁きは当時の一般の定めによって行われた。そして咎あり、とされたのである。しかし、一般大衆の本能は別の判断を下

したのだ。その結果、四十七士の物語は今日に至るまで、泉岳寺にある彼らの墓のように、緑につつまれ、芳香を放ち続けて人々の心に生き続けている

のである。

「刀は武士の魂」

切腹と仇討ちという制度は近代刑法法典の発布により、その存在理由を失った。

今日、若い娘が姿を変えて親の仇を追い求めたという物語を聞くことはない。近親者の間で行われた復讐の悲劇を目にすることもない。

宮本武蔵の武者修行は過去の話となっている。国家と社会の全体は不法が正されるのをみる。正義感が満たされれば、「敵討ち」の必要はなくなる。

「切腹」については、また「法的」には存在しないものとなった。けれども私たちは、まだ時々切腹が行われたことを聞くことがある。そして私たちの過去が

記憶に止まる限り、今後もこれを耳にすることだろう。自殺信奉者は世界中に恐るべき勢いで増加しており、あまたの苦痛のない、手間のかからない自

殺の方法が流行している。しかし、自殺の方法の中で「切腹」にこそ貴族的な地位を与えられねばならないだろう。

なぜなら、「切腹」の場合は、狂信、狂気、興奮などはひとかけらも見られない。切腹遂行の成功には極度の冷静さが必要であるからである。

これらの血なまぐさい制度からも、また武士道の一般的な傾向からしても、刀が社会の規律や生活にとって重要な役割を果たしたと推論することはたや

すい。まことに「刀は武士の魂」とすることが、金言とまでなったのである。

「刀」なぜ武士の魂なのか

武士道は刀をその武勇の象徴とした。侍の子弟はごく幼いころから刀を振り回すことを学んだ。彼らは5歳になると、正装に身をつつみ、碁盤の上に立た

された。そして、それまでもてあそんでいた玩具の短刀のかわりに本物の刀を腰に差すことで、武士の仲間入りを許された。その日は、その子にとってき

わめて記念すべき日となった。

この「武門入り」の最初の儀式が執り行われると、もはやこの身分の象徴を携えることなく、その子が屋敷の外へ出かける姿を目にすることはありあない

。だが、普段はたいていの場合、銀塗りの木刀で代用していた。ほどなくその子は、鈍刀ではあっても本物の刀を差すようになる。擬刀は捨てられ、

新しく手にすることになった刀の刃よりも鋭い喜びを手にして外へ飛び出し、あたりの木や石を相手にその切れ味を試してみる。

15歳で元服し、独り立ちの行動を許されると、彼は今やどんな時にも役にたちうる鋭利な武器を所持することに誇りを感ずる。

危険な武器を持つことは、一面彼に自尊心や責任感を抱かせる。「伊達に刀は差さぬ」

その腰に差しているものは、彼がその心中にいだいている忠誠と名誉の象徴である。大小2本の刀は、それぞれ大刀と小刀、もしくは刀と脇差しと呼ばれ

、どんな時でも腰から離れることはない。屋敷内では、書院か客間のもっとも目につきやすい場所に置かれた。夜にはすぐ手の届くところに置かれ、その

枕頭を守る。

刀はその持ち主のよき友として愛用され、その親愛ぶりを表すにふさわしい愛称がつけられた。そして、敬愛の念がたかまると、ほとんど崇拝といってよ

い感情の移入が行われる。日本の社寺や名家では、刀を尊崇の対象として収蔵している。

ごくありふれた短刀に対してさえ、それに応じた敬意が払われた。すなわち刀に対するいかなる無礼もその持ち主に対する侮辱とみなされた。

床に置かれた刀を不注意にまたぐ者に禍いあれ! このように貴ばれる品物は、いつまでも工芸家の関心や技巧、あるいは所有者の虚栄心から逃れる

ことはできない。刀が泰平の時代には、特にそうであった。鮫皮の柄、最上質の絹巻き、金や銀の鍔、さまざまな色の漆塗りの鞘などは、この凶器から、

その恐怖の半分を取り去ってしまった。だが、これらの装飾の数々は、刀身そのものと比べると玩具にすぎない。

武人の究極の理想は平和である

武士道は適切な刀の使用を強調し、不当不正な使用に対しては厳しく非難し、かつそれを忌み嫌った。やたらと刀を振り回す者は、むしろ卑怯者か、虚

勢をはる者とされた。沈着冷静な人物は、刀を用いるべきときは、どのような場合であるかを知っている。そしてそのような機会は実のところ、ごく希にし

かやってこないのである。

暗殺、自殺、あるいはその他の血なまぐさい出来事がごく普通であった。私たちの歴史上のきわめて不穏な時代を乗り越えてきた勝海舟の言葉に耳を

傾けてみよう。彼は旧幕時代のある時期、ほとんどのことを彼1人で決定しうる権限を委ねられていた。そのために再三、暗殺の対象に選ばれていた。

しかし、彼はけっして自分の剣を血塗らせることはなかった。

海舟は後に独特の江戸庶民的語り口で懐旧談を語ったが、その中で次のように語っている。「私は人を殺すのが大嫌いで、一人でも殺した者はないよ。

みんな逃して、殺すべき者でも、マアマアと言って放って置いて。それは、河上彦斎が教えてくれた。「あなたは、そう人を殺しなさらぬが、それはいけませ

ん。南瓜でも茄子でも、あなたは取っておあがんなさるろう。あいつらはそんなものです。」と言った。 それはヒドイ奴だったよ。

しかし、河上は殺されたよ。私が殺されなかったのは、無辜を殺さなかった故かも知れんよ。刀でも、ひどく丈夫に結わえて、決して抜けないようにしてあ

った。人に斬られても、こちらは斬らぬという覚悟だった。ナニ、蚤や虱だと思えばいいのさ。肩につかまって、チクリチクリと刺しても、ただ痒いだけだ、命

に関わりはしないよ」(『海舟座談〕

これが、艱難と誇りの燃えさかる炉の中で武士道の教育を受けた人の言葉であった。よく知られている言葉に「負けるが勝ち」というものがある。この格

言は真の勝利者は暴徒にむやみに抵抗することではないことを意味している。

また「血を見ない勝利こそ最善の勝利」とか、これに類する格言がある。これらの格言は、武人の究極の理想は平和であることを示している。この崇高な

理想が僧侶や道徳家の説教だけに任され、侍は武芸の稽古や、賞揚に明け暮れたのはまことに残念きわまりない。

武士道が求めた女性の理想像

人類の半数を占める女性は、ときには矛盾の典型と呼ばれる。というのは、女性の心の直観的な働きは、男性の「算数的理解力」を遙かに超えているか

らである。「神秘的」あるいは「不可知」を意味する。「妙」という漢字は。「若い」という意味の「少」と「女」という二つの漢字が組み合わされている。

女性の身体の美しさと、繊細な発想は、男性の粗雑な心理的理解力では説明できない。

武士道が説く女性の理想像には神秘性はきわめて乏しく、「アマゾネス的」な反面があり、また、著しく家庭的であった。一見矛盾するように思われる家庭

的なことと女傑的な特性は、武士道においては両立するのである。

武士道は本来、男性のためにつくられた教えである。従って、武士道が女性について重んじた徳目も女性的なものからかけ離れていたのはもしろ当然で

あった。「自己自身を女性の有する弱さから解き放ち、もっとも強く、かつ勇敢である男性にも決して負けない英雄的な武勇をしめした」女性を讃えた。従

って、若い娘たちは、感情を抑制し、神経を鍛え、武器、特に「薙刀」を操り、不慮の争いに対しても自己の身体を守れるように訓練された。

しかし、武芸習得の主な動機は、戦場で用いるためではない。それは二つの動機、一つは個人のためであり、もう一つは家のためであった。

主君をもたない女性は自分の身を護る術を鍛えた。女性は夫たちが主君の身を護るのと同じくらいの熱意で我が身を潔く守った。

女性の武芸の家庭における効用は、息子たちの教育にあった。

剣術やそれに似た訓練は、実戦に用いられることはほとんどなかったが、それでも日常の習慣上、座りがちな女性にたいする健康のバランスを保つ役目

を果たしていた。だが、時が必要とした場合には実際に役にたったのである。

少女たちは成年に達すると「懐剣」と呼ばれる短刀を与えられた。その懐剣は時には、彼女たちを襲う者の胸に、また場合によっては彼女自身の胸に突

きつけられるのであった。実際には、後者の場合が多かった。

彼女たちの懐中には常に彼女自身の武器が忍ばせてあった。自害の方法を知らないということは女性にとって恥とされた。喉のどの部分を斬るかを知っ

ておかなくてはならなかった。また、死の苦しみがいかほどであろうとも、その亡骸は乱れを見せず、端正かつ安らかな姿で見出さねばならなかった。

そのためには、両膝を帯ひもでしっかりと縛る方法を知っておく必要があった。

貞操は侍の妻にとってはもっとも貴ばれた徳目であって、生命を賭しても守るべきものとされていた。

ある、うら若い女性が捕らわれの身となり、荒くれ武士の手で暴行を加えられそうになった。その時、彼女は男に、もし、この戦のために別れ別れになっ

た妹たちに手紙を書くことが許されるならば身を任せようといった。そして、手紙を書き終えるやいなや、近くにあった井戸へ走り寄り、彼女の名誉を守る

ために、その中へわが身を投じたのである。

妻女の務めとは何か

女性には芸事や、しとやかな日常生活が要求された。音曲、歌舞、読書をすることは決しておろそかにされなかった。踊りは立居振舞をなめらかにするた

めにのみ教えられた。詩吟や鳴り物は父あるいは夫の憂さを晴らすためのものであった。したがって、その稽古はは必ずしも技巧や芸そのものを学ぶた

めではなかった。目的は心を浄化することにあった。

さまざまな芸事は、常に道徳的な価値に従うべきものと考え、音曲や舞踊は日常生活に優雅さと明るさを加えるだけで十分とされた。それらは見栄や贅

沢のためものではなかった。家を治めることが女性教育の理念であった。古き日本の女性の芸事は武芸であれ、文書であれ、主として家のためのもので

あった。どれほど遠く家郷から離れていようとも、彼女たちの脳裏にはいつも我が家の炉辺があった。彼女たちが身を粉にして働き、時には生命まで棄て

るのはひとえに、その家名を守るためであった。娘としては父のために、妻としては夫のために、そして母としては息子の為に、彼女たちは自分自身を犠

牲にした。このように、幼いころから、ひたすら我が身を否定することのみを教えられたために、日本の女性の生涯は独り立ちのものではなく、従属的な

奉仕献身の一生であった。その存在が夫の助けとなるならば、妻は夫と共に舞台に立ち、夫の仕事の邪魔となるならば、幕の後ろに引き下がる。

自己否定なくしては「内助」の功はありえない

女性が夫、家、そして家族のために、我が生命を引渡すことは、男が主君と国の為に身を棄てることと同様に、自らの意志に基づくものであって、名誉あ

ることとされた。自己否定、これなくしては女性の人生の謎を解く鍵は見あたらない。それは、男性の忠義同様に女性が家を治めることの基調であった。

女性が男性の奴隷でなかったことは、その夫たちが封建君主の奴隷でなかったことと同じである。

妻たちが果たした役目は「内助」の功として認められた。妻女たちは奉公の上り階段にたっている。彼女は夫のために自己を棄て、夫はそれによって主

君のために自己を棄て、最後に主君は天に従うことができるというわけである。

武士道は自己を犠牲にしてでも自己自身をより高次の目的に役立たせることとした。すなわち、それはキリストが説き、その教えの中で最大にして、その

使命の聖なる基調とした奉仕の教えに関するものでもあったのである。

侍階級の女性の地位について

日本の武士階級は侍に限られていて、およそ200万人に達していた。その上に軍事貴族である「大名」と宮廷貴族である「公家」がいた。

これらの身分の高い有閑貴族は名ばかりの武家であった。侍の下には一般庶民、すなわち農・工・商がいた。彼らの生業は泰平の世の生活手段であっ

た。軍事型社会の特徴としては「侍」階級に限られていたといえる。一方、産業型社会の特色は、その中の上層と下層にあてはまる。

このことは女性の地位によく表われている。なぜなら、あらゆる階級の中で侍階級の女性ほど自由を享受しなかった人々はいなかったからだ。

社会的身分が低いほど、夫と妻の地位は、より平等であった。また、身分が高い貴族の場合も両性の地位上の差異はそれほど著しくなかった。

有閑階級であった貴族たちが、文字どうり女性化していたので、性による地位の差異を目立たせる機会がほとんどなかったからである

家庭において重んじられた女性

男女それぞれが、この世において、その使命を果たすためにさまざまな要素をそなえている。男女の相対的地位を測る際にとられるべき基準は複合的な

性質のものでなくてはならない。

武士道は、それ自体の基準を持っていた。女性の価値を戦場と家庭の、双方で測ろうとしたのだ。戦場においては、女性はまったく重んじられることがな

かった。だが、家庭においては完全であった。女性に与えられた待遇は、この二重の尺度に対応していた。すなわち女性は社会的、あるいは政治的

な存在としては重要ではないが、他方、妻、あるいは母としては女性は最高の尊敬と深い愛情を受けていた。

父や夫が出陣し、家は留守になりがちであったため家の中のやりくりはすべて母や妻の手に委ねられていた。子女の教育、時によっては家の防備も

彼女たちに託された。先に述べた女性の武芸は、その子女の教育を賢明に実行していくためのものであった。

日本語のごくあたりまえの表現として、自分の妻のことを「愚妻」とか、それに似た言葉が用いられることがあるが、女性が軽蔑され、高く評価されていな

いからではない。自分自身のことを「聡明な私」とか、「私のすばらしい気質」などと表現するのは、果たしてよい趣味といえるだろうか。

私たち日本人は、自分の妻をほめることは、自分の一部を誉めることだと考える。

そして、自画自賛は、日本人にとっては少なくとも悪趣味以外のなにものでもない、とされている。自分の半身を、他人に対する礼儀上、けなして呼ぶこと

は侍の間で通例行われていた慣習であった。

武士道の武の道徳においてその規準は、人はその人自身の内なる崇高な魂に結びつくこと、この章の初め述べた五倫の道によって他の人の魂と結

びつくという義務の道筋に沿って存在した。 武士道にとって家臣と主君という関係こそが基本的な関係であった。それ以外の関係は自然の感情に基づく

ものであって、すべての人類の人間関係に共通しているものであった。しかしながら、武士道に特別な徳目や教訓が侍階級だけに限られていたのではな

かった。このことは、武士道の感化が日本人すべてに行き渡っていた、という考察が必要である。

「大和魂」

武士道の徳目は私たち日本人一般の道徳水準よりもはるかに抜きんでている。当初、武士階級を啓発した武士道の道徳体系は、一般大衆の中から

これに追随する者を引きつけていった。美徳は悪徳に劣らず伝染しやすい。

「たった一人の賢人が仲間の中にいればよい。そうすれば全員が賢くなる。伝染力とはかくも急速である」

過去の日本の侍は民族の花であり、かつ根源でもあった。天のあらゆる恵み深い贈り物は侍を通じてもたらされた。社会的存在としては、武士は一般庶

民に対して超越的な地位にあった。彼らは道徳の規範を定め、みずからその規範を示すことによって民衆を導いた。

武士道が武士階級自体に対する奥義ともいうべき教訓と、通俗的な教訓をあわせもっていることを認めるものである。

あるものは人民の福祉と幸福を乞い願う超階級的な善意であり、あるものは武士階級自信のための徳目の実践を強調する気高い規律であった。

芝居、寄席、講釈、侍の物語を主たる題材としている。義経とその忠臣、武蔵坊弁慶、勇敢な曾我兄弟、信長や秀吉、徳川家康、忠臣蔵の物語を語り、

あきることなく繰り返した。侍は民族全体の「美しき理想」となった。「花は桜木、人は武士」と歌われた俗謡は全国に行き渡った。

武士階級は営利を追求することを堅く禁じられていたために、直接商売の手助けをすることはしなかった。しかしながら、いかなる人間の活動も、いかな

る思考方法も、武士道からの刺激を受けずにはいられなかった。日本の知性と道徳は、直接的にも、間接的にも武士道の所産であった。

武士道精神がどのようにあらゆる社会的身分の中に浸透していったか、ということは「男伊達」として知られる、ある侠客の親分、民衆の中のリーダーの

発達によって見ることができる。

彼らは義侠心にあふれた連中で、頭の頂から足先まで、豪快な男らしい力を漲らせていた。かつては庶民の代弁者であり、用心棒であった親分たちは各

々数百、数千の子分をもっていた。そして、子分たちは、あたかも侍が「大名」に忠誠を誓うことと同じように、自らすすんで「我が五体と命、家財、この世

の名」をその親分捧げると申し出たのである。これらの多くの荒くれ市井無頼の徒の支持を受けて、天成の「親分」たちは、二本差しを振り回す階級の専

横に対して、ときには強い抑止力を加えることができた。

さまざまな局面で武士道は、その生みの親であった社会的身分からさまざまな道筋を経て流れ出し、大衆の間で酵母として働き、日本人全体に対する道

徳の規準を供給した。武士道は当初、「エリート」の栄光として登場した。だが、やがて国民全体の憧れとなり、その精神となった。庶民は武士の道徳的

高みにまで達することはできなかったが、「大和魂」すなわち日本人の魂は、極めるところの島国の民族精神を表すにいたった。

サクラは「大和魂」の典型

武士道はまさしく、宗教の列に加えられるべき資格を有する道徳体系にほかならない。

本居宣長は「しきしまのやまと心を人とはば、朝日ににほふ山ざくらばな」とよんで、日本人の純粋無垢な心情を示す言葉として表した。

桜は私たち日本人が古来からもっとも愛した花である。そして、我が国民性の象徴であった。

大和魂とは、ひ弱な人工栽培植物ではない。自然に生じた、という意味では野生のものである。それは、日本の風土に固有のものである。

私たち日本人の桜を好む心情は、それが国固有の産物である、という理由によるものではない。桜の花の美しさには気品があること、そしてまた、優雅で

あることが、他のどの花よりも日本人の美的感覚に訴えるのである。

私たちはヨーロッパ人とバラの花を愛でる心情を分かち合うことはできない。バラには桜花のもつ純粋さが欠けている。バラにはその甘美さの陰に棘を隠

している。バラの花はいつとはなく散り果てるよりも、枝に付いたまま朽ち果てることを好むかのようである。その生への執着は死を厭い、恐れているよう

でもある。しかもこの花にはあでやかな色合いや、濃厚な香りがある。これらはすべての日本の桜にはない特性である。

私たちの日本の花、桜はその美しい粧いの下に棘や毒を隠しもってはいない。自然のおもむくままにいつまでもその生命を棄てる用意がある。

その色合いはけっして華美とはいいがたく、その淡い香りには飽きることがない。

桜の花がそのかぐわしく、甘美な香りに満ちる季節に、すべての人々が小さな家々から外へ出て、その空気に触れるいざないにこたえたとしても何の不

思議もないではないか。では、このように美しく、かつはかなく、風のままに散ってしまうこの花、ほんのひとときの香りを放ちつつ、永遠に消え去ってしまう

この花が「大和魂」の典型なのだろうか。日本の魂とはこのようにもろく、滅び去ってしまう運命にあるのだろうか。

武士道は日本の活動精神、そして推進力である

日本に怒濤のように押し寄せた西洋文明は、我が国古来の訓育の痕跡を消し去ってしまったのであろうか。国民の魂がそれほど簡単に死滅してしまうも

のとすれば、それはまことに悲しむべきことである。

外からの影響に対して、いとも容易く敗退するものならば、それはきわめて貧弱な魂といわねばならない。

国民性をかたちづくっている心理的構成要素は「魚のひれ、鳥のくちばし、肉食動物の歯のように、それぞれの種属にとって取り除くことができない要素」

であるのと同様に、バラバラに切断することはできない。

「知性がもたらした発見は人類共通の遺産である。しかし、性格の長所や短所は各民族がそれぞれ継承する固有の遺産である。それらは幾世紀にもわ

たって、日夜、海水で洗われている硬い岩のようなものであって、わずかに表面の尖った部分が削りとられるにすぎないものである」

武士道が蓄えている活力は、仮に物理的な力にすぎなかったとしても、過去800年間の間に獲得してきた勢いが突然停止することはありえない。

もし、それが遺伝によってのみ伝えられたものであるとしても、その影響は広汎な範囲に及んでいるに違いない。

武士道は一つの無意識的なあらがうことのできない力として、日本国民及びその一人一人を動かしてきた。近代日本のもっとも輝かしい先駆者の一人で

ある吉田松陰が刑死前夜にしたためた次の歌は日本国民の偽らざる告白である。

「かくすればかくなるものと知りながら、やむにやまれぬ大和魂」  

系統だてて説かれたわけではないが、武士道は日本の活動精神、推進力であったし、また今後もそうである。